「(キリストの御霊が明らかにされた)その奥義とは、福音(アブラハムと契約を結ばれたイスラエルの神は、イスラエルに遣わされた神の御子イエス・キリストの御名によってお与えになる聖霊〈キリストの御霊〉により神の御子イエス・キリストにつくすべての者に永遠のいのちを得させてくださるという、神の御計画)により、(神のひとり子)キリスト・イエスにあって、(神との契約の無い無割礼の)異邦人もまた(イエスの父であるイスラエルの神、すなわち、アブラハムと契約を結ぶ全能の神を信じる、アブラハムの信仰の子孫となって)共同の相続者となり、ともに一つのからだ(神の御子であるキリストのからだ)に連なり、ともに約束にあずかる者(神の御子イエス・キリストとともに天の御国を相続する者)となるということです。」(エペソ3:6)
「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」(エペソ3:5)
神の祭司の国民イスラエルをお建てになった時から、異邦人の救いの御計画はありました。
しかし、それは、割礼と律法によって、異邦人も約束のものを受け継ぐとされていたのです。すなわち、現在の考え方によれば、ユダヤ人と同じように割礼を受けて、ユダヤ教に改宗して、神の律法の下にはいり、ユダヤ人のようにならなければならないとされてきました。
異邦人が異邦人のまま、イスラエルの神の御救いの中にはいることができるなんて、だれが想像したことでしょう。
アブラハムと契約を結ばれた全知全能の神の民となるのです。アブラハムの契約である割礼のしるしを持たなければ、イスラエルの民とは言えません。
神の律法を与えられて、神の祭司の国民とされたイスラエルです。神の律法の下にはいらなければ、イスラエルの民とは言えません。
アブラハムは、信仰の人です。神が神の御子を遣わすために契約を結んだ「信仰の父」(とこしえの御救いを待ち望む信仰の始まり)です。信仰の父アブラハムの子孫が、神の御子キリストを生むのです。
アブラハムの信仰は、祝福の基となると神に約束されました。
「地上のすべての民族は、あなた(アブラハムの契約)によって祝福される。」(創世記12:3)
アブラハムの子孫であるユダヤ民族だけではありません。地上のすべての民族が、アブラハムの信仰によって祝福されると、主は仰せられました。
神は、アブラハムの子孫であるユダヤ民族を選び、神の祭司の国民として任命し、神の律法(聖書)を授けられました。
神と契約を結ぶ神の民は、ユダヤ民族の父ヤコブの名前であるイスラエルと呼ばれ、ほかの民族と聖別されたのです。
七十人でエジプトにはいったヤコブとヤコブの家族は、エジプトの地で増えました。
ヤコブの遺骸をカナンの地にあるアブラハムの墓地に埋葬し、十二人の息子たちも亡くなりました。エジプトの大臣であった、ヤコブの長子ヨセフが亡くなり、ヨセフのことを知らない王がエジプトに立つと、エジプト人は、寄留者であったヨセフの親族(ヤコブの子孫)を、エジプトの奴隷として、苦役を課しました。
神が荒野に逃れていたレビ族のモーセを召されました。そして、奴隷の家エジプトに遣わして、ヤコブの子孫をエジプトの地から連れ出し、先祖の眠るカナンの地に導き入れるために、荒野を進ませました。
七十人ではいったヤコブの家族は、四百年の奴隷の期間に、増え広がり、成人男子だけで六十万人の一つの民族(ユダヤ民族)となって、荒野に入りました。
その時、エジプトを出て荒野にはいった人々は、ヤコブの子孫のユダヤ民族だけではありませんでした。奴隷を救い出されるユダヤ民族の神について行きたいと思ったほかの民族の人々もいたのです。在留異国人と呼ばれる人々です。
ヤコブの十二人の息子を族長とする十二部族のユダヤ民族が、荒野でユダヤ人の先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神と契約を結んだとき、在留異国人たちもイスラエルの中にいて、ともに神の民となりました。
神は、民族を区別しないで、ユダヤ人たちの神について来る人たちもまた、イスラエルの民に加えられたのでした。
さて、聖書をゆだねられたユダヤ民族はカナンの地にはいり、イスラエルの国を建国しました。
イスラエルにダビデ王を立てられた主は、ダビデ王の子孫に神の御子キリストを遣わすと約束されました。そして、イスラエルのダビデの王座はキリストによって堅く立つことと、彼(キリスト)はとこしえの国を治める、と仰せられたのでした。
ダビデの町ベツレヘムで生まれた神の御子イエスが、主がダビデに約束された、とこしえの国イスラエルの王座に着くとこしえの王です。
イエスは、イスラエルを巡って、父なる神について、天の御国について、永遠のいのちについて、また、キリストがお与えになる真理の御霊について教えて回られました。
イエスは、イスラエルの神、すなわち、父なる神から、契約の民であるユダヤ人たちに宣教するように命じられていました。
カナン人の女が、イエスに助けを求めて叫んでも、イエスは彼女に一言もお答えになりませんでした。
イエスは言われました。
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」
イエスは、ご自分を遣わされた父なる神に忠実でした。父に命じられたことを言い、また、行なうだけです。
イエスは、カナン人の女にいわれました。「子どもたち(ユダヤ人)のパン(神のことば)を取り上げて、小犬(異邦人)に投げてやるのはよくないことです。」
しかし、カナン人の女は引き下がりません。「主よ。その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:28)
カナン人の女は、キリストにしつこく求め続ける信仰によって、神の恵みをいただきました。
イエスは、異邦人には宣教されませんでした。ユダヤ人の病人や罪人や悪霊つきや、滅びた羊のところに行って、悪霊追い出しや癒しや罪の赦しを宣言されたのです。
復活のイエス・キリストが天に引き上げられると、弟子たちに聖霊が注がれました。そして、使徒たちを中心としてエルサレム教会がスタートしました。
一方、復活のキリストは、イエスの弟子たちに殺意を燃やす厳格なパリサイ人のサウロに現われて、サウロ(後のパウロ)を「異邦人の使徒」として任命されました。
キリストの福音は、ユダヤ民族だけの救いではありません。キリストは、神の祭司の国民のユダヤ人に、キリストの福音のことばをゆだね、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えるようにされたのです。
神の御救いは、あらゆる国、あらゆる民族に宣べ伝えられるものなのです。アブラハムがすべての民族の祝福の基となると仰せられたのは、世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリストによって、世界に御救いをもたらすことでした。
信仰の父アブラハムは、アブラハムの血肉の子孫であるユダヤ民族の父であり、また、神の御子イエス・キリストによって御霊をいただく新しい創造の人たち、すなわち、あらゆる民族の中で、イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちの父となるのです。
新約聖書で「イスラエル」という時、ヤコブの血肉の子孫のイスラエル(ユダヤ民族)と、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、新しくイスラエルに加えられる異邦人をもさすのです。
パウロは、異邦人にキリストの福音を宣べ伝え、異邦人の御救いに仕えるためにキリストによって召されました。それは、キリストがされなかったみわざです。
パウロは言います。
「キリストのからだ(教会)のために、私(パウロ)の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところ(神を知らず望みもない無割礼の異邦人への宣教)を満たしているのです。(コロサイ第一1:23,24)
厳格な律法の奴隷(ユダヤ教徒)の中から、生ける神の福音の伝道のために選び分けられ、異邦人への使徒として召されたキリスト・イエスの使徒パウロは言います。
「この(生ける神の)福音は、神が預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、(神の)御子に関することです。(アブラハムもダビデも、神の啓示によって御子の栄光を見て、神をたたえ、喜びに満たされていました。アブラハムは神の御子の御救いを待ち望み、ダビデは神の御子を「わが主」と呼びました)
(神の)御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ(ダビデの子ヨセフの許嫁の妻である処女マリアから産まれ)、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により(すなわち、御霊によって死者の中から永遠のいのちを得た新しい人として復活のからだで生まれ)、(神の)大能によって公に神の御子として示された方(十字架につけられ神の贖いの子羊として罪の贖いの血を流し、死から甦られたキリスト、すなわち、神御自身が神のひとり子の栄光をイスラエルに現わされた神の子羊イエス)です。
このキリスト(神の御子イエス)によって、私たちは恵み(罪の赦しと神の子どもとされる特権)と使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(悪魔のように神に反逆する者ではなく、また、疑いや不安や恐れからではなく、まことの神の御主権にへりくだり、神と神のひとり子に信頼して信仰と希望と愛に成長し、幼子のような素直な信仰の従順へと導くためです)
(イエス・キリストを信じ、御霊を受けて従う)あなたがたも、それらの人々(イエス・キリストを信じる人々)の中にあって、(キリストを知らずに真理を求める人たちに対して、生ける神のあかしと生かす御霊のいのちを現わすために〈生ける水の川を流すために〉)イエス・キリストによって召された人々です。」(ローマ1:2-6)
ユダヤ教徒のパウロは、割礼と律法のない異邦人でも、ユダヤ教に改宗せずに、神の御子イエス・キリストの福音によって御救いを受け、イスラエルに加わることを知りました。
終わりの時代に、キリスト教徒は、キリスト教会の中にいない人たち、すなわち、神道や仏教などの異教徒でも、キリストがお与えになる生かす御霊(真理の御霊)によって御救いを受け、御霊の教会にはいることを体験していくことでしょう。