ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の祈りは聖霊の雨

 

 パウロは言います。

 「私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

 それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

 植える者と水を注ぐ者は、一つですが(同じ一つの御霊による働きですが)、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

 私たち(福音の種を蒔き牧会する人たち)は神の協力者であり、あなたがた(信者たち)は神の畑、神の建物です。(パウロによってキリストの福音の種を受けたあなたがたは、アポロに神の御言葉を教えられて信仰の道を歩み、神の御霊によって育てられ成長する神の子どもであり、また、御霊の実を結ぶ神の畑であり、神の建物である生ける神の家を建て上げる一部なのです)」(コリント第一3:6-9)

 

 働き人たちは、神ではありません。神の協力者なのです。

 「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられた(神の)しもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。」(コリント第一3:5)

 

 なぜ、パウロは、このようなことを言ったのでしょうか。

 信者たちの間に、妬みや争いがあり、ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロにつく。」と言っていたからです。

 

 パウロは、このような人たちを見て、御霊をもたないただの人のように歩んでいる肉に属する人たちである、と言いました。

 御霊を受けても、御霊に教えられなければ、御霊に属する者として成長することは難しいのです。

 

 御霊のことは御霊によって教えられます。御霊に教えられていない彼らに、パウロは御霊に属する人に対して話すように話すことができないと判断したのです。

 

 同じように教会に集っていても、みことばを理解できる人と、理解できない人がいます。信仰年数の違いだけではないようです。

 神に祈り、神と交わる体験を持っているか、持っていないかの違いです。

 

 同じように礼拝メッセージを聞いても、神のことばとして受ける人と、牧師のことばとして受ける人とがいます。また、礼拝に参加することが目的であって、儀式的に参加し形式としてメッセージを聞き流す人もいるのかもしれません。

 

 信仰を育てるのは、神だとパウロは言います。

 育てるのは牧師のように思っていましたが、実は神御自身によるもののようです。牧師は、羊たちの健康状態を管理することであり、病んでいる羊を包み、迷っている羊を正しい道に連れ戻してあげる働きのようです。そして、いのちのパンであるイエスのことばや、神のことばを与えてあげることです。

 

 人間も赤ちゃんのうちは、乳を与えて堅い食物を与えません。しかも、乳を吸うのは、赤ちゃん自身なのです。吸うことができなければ、管を通して流し込むこともあるのかもしれません。しかし、だいたいは、赤ちゃん自身で生きるための糧を自分のうちに取り込みます。

 

 離乳食を食べさせる期間がありますが、わずかの時です。大人が子どもに食べ物を用意すると、子どもは自分で食べて大きくなります。

 大きくする力は、親の中にも子どもの中にもありません。食べ物を消化させ、栄養として身体に吸収し成長させるのは、からだの機能を造られた神なのです。

 

 母親が子どもを産みます。産んだだけで食べ物を与えなければ、子どもは育ちません。死んでしまいます。

 親は子どもに食べ物を用意してあげます。食べ物を目の前にしても、子どもが食べなければ、子どもは健やかに育ちません。偏った食べ方をすれば、いずれ身体に支障が現われることでしょう。

 食べる食べないのは、子どもの意思によるのです。それを正すのは、大人の働きですが、強情な子どもにはなかなか困難なことです。

 

 教会では、信仰の年齢や年数によらず、目に見える肉の年齢で判断しやすいです。成人した大人を子どものようには扱いません。大人として神のことばをそのまま伝えます。

 また、小学生の子どもには大人に対するようにせず、神のことばを噛み砕いて教えます。

 

 このように、世の接し方で接っしやすいですが、実は信仰年齢というものがあって、素直な幼子は、大人以上に霊的な理解が進んでいる場合があります。また、社会的地位のある立派な大人が、全く理解できないこともあります。

 

 パウロは、御霊を受けた人たちに向かって言ったのでした。すなわち、御霊を受けたから、信仰年齢が高いというわけではないのです。

 それゆえ、御霊に属する人に対するようには話すことができないと判断したパウロは、彼らには、肉に属する人、キリストにある幼子のように話しました。

 御霊を受けていても、生まれたての赤ちゃんのままの人たちがいます。御霊を受けたから、肉に属する人を卒業して、御霊に属する成人になるわけではありません。

 

 成長させてくださるのは、福音の種を蒔いて植えたパウロでもなく、神のことばを教え水を注いだアポロでもありません。

 パウロもアポロも、成長させてくださる神の働きの協力者であり、彼らもまた、神の働き(御霊)によって成長した御霊の器なのです。

 

 どんなに立派で有名な教会に属していても、どんなに信仰にすぐれた牧師のもとにいても、御霊に教えられなければ、御霊の器として成長することはできません。

 

 御霊に教えられるとは、まず、祈ることです。祈りによらずして、どのようにして霊なる神と交わることができるのでしょうか。

 喜びや感謝を口にのぼらせることは、神のことばを舌に置くのにとても大切なことです。感謝は、肉に属する人の前に、霊的な領域への扉を開きます。そして、目に見えない霊なる神を感じる感覚を養います。感謝は、肉の思いで固まった地(自分の心)を耕しているのです。

 肉に属する人々の交わる世の中では経験したことのなかった、解放されるような自由な感覚です。

 

 自分の内側に語りかけてみてください。「きょうは空がきれいだね。」「可愛い花が咲いているね。」「鳥のさえずりが心地いいね。」

 どんどん、自分の内側を柔らかくしていきましょう。語りかけられると、内なる存在は、目覚めて来ます。同じように空を見上げて、「本当だ。きょうの空は青くてきれいだ。」「あっ、こんなところに花が咲いていたんだね。」そして、鳥の声に優しさと元気をもらいます。

 

 少しずつ、霊なる神のいのち(聖霊)の領域が育って行きます。霊的な感覚が日常のことのようになると、知らないうちに、霊の耳や霊の目を塞いでいた、この世の常識から解放されていきます。

 

 心が軽やかになり、あらゆるものに、いのちを感じやすくなっていきます。その感じたままを、心の声で神に祈ると、祈る喜びがわき起こって来ます。祈りは苦痛なことではなく、親しい友人とともに楽しい時間を過ごしているようです。

 

 自分の心のうちにある悩みも、思っていることも、感情も、そのまま、信頼する友人に打ち明けるように、祈りにしてみてください。御霊は聞いておられます。

 そして、御霊に祈ったことの答えが現われる体験をしていくことでしょう。本当に不思議な感覚です。神は本当に私の祈りを聞いておられたのだ、と実感します。

 

 御霊の子どもが育つと、聖霊は、幼子の食べ物である乳から、堅い食物へと変えていかれます。御霊を受けた人が御霊に祈るように、御霊も御自身のことをその人に知らせてくださるようになるのです。

 

 成長すると、聖霊は、自分のために祈っていた人に、他者のために執り成すということを教えていかれます。聖霊は、私たちに御自身の祈りをゆだねてくださるのです。

 そして、聖霊にゆだねられた祈り(執り成し)を御霊に従って祈っていくと、自分の中の信仰の根が、自分のうちに深く根付いていくのを感じます。

 

 すると、執り成しを学んだ人に、聖霊は、神の家のために祈って欲しいことを告げてくださるようになります。

 その頃には、聖霊の感覚に敏感になっており、聖霊の思いを以心伝心で捉えることもあるでしょう。

 

 以心伝心で聖霊の御思いを捉える人もいます。夢や幻で啓示を受ける人もあります。神の御声を聞く人もあります。聖書のみことばに語りかけられる人もいます。環境や状況の中に神の御思いを悟る人もいます。

 人は、それぞれ賜物も違えば、環境も、年齢も、違います。しかし、御霊は一つの御霊です。

 

 聖霊のバプテスマを授ける神の御子イエス・キリストは、おのおのに、御霊を分け与えておられます。私たちひとり一人が御霊に従うとき、神の家は神の御心にそって育てられ成長しているのです。

 

 信仰は、御霊によって育てられ成長します。

 信者が集まって祈ることは、互いの成長を促すことになるでしょう。ひとりで神の家を建て上げているのではなく、それぞれが成長して神の家の一部分を担っているのです。

 

 御霊を宿す人の祈りは、御霊の祈りであり、生ける神は、聖霊の雨(生かす御霊のいのち)を注いでくださいます。それは、祈られている対象に、また、祈っている人に降り注ぐ、生ける水の川の雨です。

 いのちが働くのです。ある人は霊の覆いが取り除かれ、ある人は新しい心(神を信じる心)をいただき、ある人は癒され、ある人は慰められ、ある人は励まされ、ある人は真理を悟り、ある人は問題解決の糸口を見出すことでしょう。

 

 御霊の祈りは、地上に聖霊の雨を降らせます。目覚めさせる激しい雨であったり、種を養い育てる優しい雨であったり⋯。

 永遠のいのちを得させられる聖霊は、生ける神のいのちの水を降り注がれます。

 

 神は、御霊によって成長し、聖霊の雨を降り注ぐ御霊の祈りをする人を募集しておられます。