ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

真理とは

 

 ユダヤ人たちと祭司長たちが、ナザレのイエスを十字架につけて処刑するために、ユダの総督ピラトにイエスを引き渡しました。(当時のイスラエルはローマ帝国の属州でした。ユダの総督ピラトが治めていたのです。ユダヤ民族に処刑の権威はありません。イエスを処刑するためには、総督ピラトの許可が必要でした)

 

 ピラトはイエスの処刑は理にかなっているのかどうかを調べるために、イエスに質問しました。ピラトには、イエスが罪を犯した者(犯罪者)と思えなかったからです。イエスは、本当に死刑に価する者なのでしょうか。

 

 「ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』

 イエスは答えられた。『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』

 ピラトは答えた。『私はユダヤ人ではないでしょう。(ユダヤ人ではない私が判断することではありません)あなたの同国人(ユダヤ人たち)と祭司長たちが、あなた(ナザレのイエス)を私に引き渡したのです。(あなたの同国人のユダヤ人たちから死刑に処せられる)あなたは何をしたのですか。(何の罪で訴えられたのですか)』

 イエスは答えられた。『わたしの国(イエスが王として治める「とこしえのイスラエル」)はこの世のものではありません。(肉体を持つユダヤ人たちの暮らすこの世〈現世〉から出たものではありません。肉なる人間には隠されたものです)

 もしこの世のもの(イエスが治める国がこの世のイスラエル)であったなら、わたしのしもべたちが、(師であり、王であり、主である)わたし(ナザレのイエス)を(イエスに殺意を燃やす、肉なる)ユダヤ人たちに渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(イエスの弟子たちも見た事のない「とこしえの国」なのです。それは、だれも見た事も聞いたことも味わったこともない、真理です。)』

 そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたはイスラエルの王なのですか。』

 イエスは答えられた。『わたし(ナザレのイエス)が(永遠の国「とこしえのイスラエル」の)王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理(初めからおられる方、全能の神によって存在し、永遠の昔からある全き光の天の御国、偽りのない正義と愛と調和の聖なる世界、永遠のいのちととこしえの国)のあかしをするために(イスラエルに)生まれ、このことのために(イスラエルの神とイスラエルの神の御計画を、イスラエルに明らかにするために)世に来たのです。真理(神の御国)に属する者はみな、わたし(神の御子イエス・キリスト)の声に聞き従います。(いのちの根源〈イスラエルの神〉に帰り、神のひとり子〈神のことば〉と一つとなる真実なイスラエル〈神の国民〉は、イスラエルの神が遣わされた神の子羊イエス・キリストのことばを信じ、魂の飼い主であるイスラエルの王キリスト・イエスの声に聞き従います)』

 (ユダの総督)ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」(ヨハネ18:33-38)

 

 割礼と律法のない異邦人のピラトは、生けるまことの神を知りません。ユダヤ人が神の民であることがわかりません。天地万物を造られた全能の神と契約を結び、神の御救いの約束を持つユダヤ民族のことを知らないのです。

 

 真理とは何でしょう。

 生老病死の苦しみからの解放を求めて、悟りに至った仏陀(釈迦)にわかったことは、いっさいのものは、空(くう)であるということ。いのちあるものは必ず死に、かたちあるものは必ず壊れるのです。永遠のものは何一つとしてありません。

 

 普遍も不変も、人間の望みであって、そのようなものはこの世にはないのです。

 これがすべて存在するものの摂理です。これを覆すものはない、とあきらめるのでしょうか。あきらめきれないのが、思考力を持つ人間です。

 

 仏門にはいった日本人たちは探究しました。

 そして、自分の存在を振り返る良寛は、自らを「非俗非沙門(俗に非ず沙門に非ず〈私は、全くの俗世間の者ではない[仏の道、真理の道を探究する者である]が、かと言って、出家して仏門にはいっても完全な賢者になることができず、俗と分離する聖者となることもできないので、僧とも言えない〉)」と言い表わしました。

 

 「自分は何者なのか。」の問いに、「自分は何者でもない。」という答えを見いだしたのです。

 

 苦悶して摂理を悟ったユダヤ人の知恵者は言います。

 「空の空。すべては空。(くうのくう。すべてはくう)」(伝道者1:2)

 

 この知恵者には、神の律法「聖書」がありました。神と契約を結ぶユダヤ民族のユダヤ人だったからです。神の存在を知る者でした。

 それゆえ、仏の道で「空」を知った人とは異なっていました。

 

 ユダヤ人の知恵者は、神の存在を意識しました。彼の思考の土台には、帰るべき出発点があったのです。

 

 「私(ソロモン)は心の中で人の子らについて言った。(神はイスラエルを神の民としてほかの民族と聖別しておられる。神の選ばれた人の子〈キリストはユダヤ人から出て、御救いの約束を持つ神の民イスラエル〉は、ほかの民族の人間とは区別されるはずだ。しかし、実際は神の民「人の子」もこの世の民「人間」も何ら変わりがない)

 『神は彼ら(イスラエル)を試み、彼らが獣(ほかの民族と同じ人間)に過ぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。』

 人の子(神の選びの民)の結末と獣(神の御救いの契約を持たない人間)の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。(風を追うようなものだ。神の律法を嘲笑い好き勝手に生きる人間、神の民に横暴な人間どもと同じように、神の民もまた苦しみを味わい、死ぬのだ)

 みな同じ所に行く。(すべての者は必ず死ぬのだ)すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。

 だれが知っているだろうか。人の子ら(神のことばに聞き従う神の民)の霊は上に上り(天の御国にはいり)、獣の霊(神のことばから外れている人間)は地の下に降りて行く(闇に下る)のを。(目に見えるところ、また、地上で生きている間は何もかわらないが、死後に分けられるのだ)

 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。(天に上る神の民も、地に下る人間も、生きている間は何もかわらないのだ。神に選ばれているからと言って、地上に良い報いがあるわけではない)

 それ(後に起こること)が人(神の民)の受ける分であるからだ。

 だれが、これから後に起こることを人(神に帰る神の民)に見せてくれるだろう。(神の選民と言っても、世の人々と同じであるならば、何の楽しみがあろうか。何に希望を持てばよいのか。だれが、神の選民に「あなたの道には希望がある」と言って、その祝福を見せてくれ、また、保証してくれるであろうか)」(伝道者3:18-22)

 

 仏の道を行く人は、自分は何者でもない、という考えに至りました。神の存在を知らないその人は、自分は何者でもないと悟った先に何があるのか、には至りません。

 解決の糸口はなく、「空」と「無」を知るだけです。

 

 神を知っているユダヤ人の賢者は、悟ります。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者3:11)

 天地万物の創造主、人を造られた神が人に永遠への思いを与えられているから、人は死んで終わりでない世界を知ろうと探るのです。

 

 ユダヤ人の伝道者もまた、「空の空。すべては空」と悟りました。

「塵(死んだ人の肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」(伝道者12:7)

 

 しかし、神の存在を知るユダヤ人は言います。

「私は知っている。すべて神がなさる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れを持つようになるためである。」(伝道者3:14)

 

 伝道者は真理のことば(神を恐れることと、神の命令を守ることとが、人間のすべてであることを書いた箴言、すなわち、人のむなしさと神の真実を悟った箴言)を書き残しました。

 

 ユダヤ人の賢者は、神が裁き主であることを悟ったのです。

 「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。(それゆえ、神を恐れること、神の命令を守ることが、人間にとってのすべてである)」(伝道者12:14)

 

 さて、総督ピラトがイエスに尋ねた真理とは、何だったのでしょうか。イエスは答えられませんでした。

 ピラトが神の民ではなかったからです。真理は、神の民にゆだねられたものなのです。

 

 イエスは、使徒たちに言われました。

 「(天から遣わされた)わたしが道(天の御国にはいる道)であり、真理(永遠に変わらぬもの)であり、いのち(人に永遠のいのちを得させるキリスト)なのです。わたし(神の御子イエス・キリストの御名)を通してでなければ、だれひとり(ユダヤ人であっても)父のみもと(肉体に魂をいれて霊を生かす創造主であられる神、すなわち、神の御子イエス・キリストの父の住まわれる天の御国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

 真理とは、永遠の昔からおられる神であり、全き光の天の御国であり、永遠のいのちです。

 死の存在するこの世は、真理ではありません。死に定められた人間から出るものに真理はありません。

 真理は、死(悪魔)を滅ぼして、人に永遠のいのちを得させ、天の御国にはいらせる神のひとり子ナザレのイエス、唯一のキリストです。キリスト(真理)によらなければ、真理(永遠のいのち)を得ることはできません。

 

 イエス・キリストは、いのちの根源であられる天の神のみもとから来て、天の父なる神のみもとに帰られた神のひとり子です。

 ナザレのイエスは、神の民イスラエルの王となられるキリスト、そして、天と地の主権が与えられた天の御国の相続者であり、天の御国を相続する神の子どもたちの長子です。

 

 イエス・キリストは、天の御国(真理)の父(神)のみもとから来られた、永遠の昔からおられる神のひとり子(真理)であり、生老病死(肉体の命の苦しみ、老いと病と死)から解放する贖い主であり、人に永遠のいのち【真理の御霊】を得させるキリスト(救世主)です。

 真理の御霊を受ける新しい人もまた、イエス・キリストに繋がって、永遠に存在する真理となるのです。

 

 人間は真理を求めました。

 真理(神のひとり子キリスト・イエス)は、死の定められた空(くう)なる肉の人を贖い、御霊によって造り変えて、神の子ども(真理)としてくださり、天の御国(真理)にはいる者としてくださるのです。

 

 真理とは、永遠に変わらぬもの。すべての存在の源であり、全き光のいのち(永遠のいのち)です。

 思索し探究し心に永遠への思いを持つ人たちは、信仰と希望と愛によって、真理を見つけることでしょう。