イタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリオは幻を見ました。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていました。彼は、幻の中で神の御使いをはっきりと見、ペテロを家に招くようにと告げられました。
一方、空腹のペテロは夢心地のうちに、幻を見ました。
ユダヤ人が律法によって禁じられている生き物たちをいれた入れ物が天から降ろされて、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声がしました。
ペテロが、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と言うと、再び声があって、ペテロに言うのです。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられました。
ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、その家の門口に立っていました。
御霊は、ペテロに言われたのです。
「見なさい。三人の人(異邦人)があなたをたずねて来ています。ためらわずに、(無割礼の)彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたし(キリストの御霊)です。」
かつて、イエスは、十二使徒を遣わすとき、「異邦人の道に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と命じられました。
また、イエスは、イエスのもとに来た異邦人に一言もお答えにならず、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには(父に)遣わされていません。」と言われたではありませんか。
ペテロはパウロのような律法に厳格なパリサイ人ではありませんでしたが、律法を守るユダヤ教徒でした。ペテロは、聖書に禁じられている生き物の肉は食べたことのないユダヤ人です。無割礼の異邦人との関わりを持つことのない一般的なユダヤ人でした。
しかし、聖霊は、ペテロに幻を見せて、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」と言われるのです。
今まで、守って来た律法に違反してよいのでしょうか。神に背くことにならないでしょうか。常識的なユダヤ人であるなら、だれでも戸惑うことです。
神に聖別されていない異邦人の家に行くことは、神の民としてふさわしいことでしょうか。神に聖別された民の自分を汚すことにはならないでしょうか。
しかし、聖霊は確かに、彼らといっしょに行くように、と言われるのです。
ペテロは、彼らといっしょに、ヨッパの兄弟たちも同行して、コルネリオのところへ行きました。そこには、多くの人が集まっていました。
ペテロは、彼らに言いました。
「『ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私(ペテロ)をお招きになったのですか。』
するとコルネリオがこう言った。
『四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう。輝いた衣を着た人が、私の前に立って、こう言いました。
「コルネリオ。あなたの祈りは(生けるまことの神に)聞き入れられ、あなたの施し(神の民ユダヤ人たちへの施し)は(イスラエルの)神の前に覚えられている。
それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人(ペテロ)は海辺にある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。」
それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。』」(使徒10:28-33)
おひとりの神が天地万物の創造されました。全能の神、主です。それゆえ、ユダヤ民族の神となられた全能の神、イスラエルの神は、すべてのものの神でもあるのです。
イスラエルの神は生きておられ、文字に書かれた律法ではありません。神の御子イエスのことばであり、聖霊の導きです。
イエスは墓から甦り、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられました。
キリストは、使徒たちに、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ。」と命じられました。そして、聖霊のバプテスマを授けられ、使徒や弟子たちは御霊の力を着せられたのです。
今は、ユダヤ人の王ナザレのイエスが、ユダヤ人たちの御救いのために、ユダヤ人の滅びた羊の所へ行って癒しを与え、慰めを与え、愛と希望と信仰を与える働きの時ではありません。
神の御救いは、聖霊の働きにより無割礼の異邦人にまで及んだのです。そのこと(全世界に行って福音を宣べ伝えよ)は聞いていましたが、今がそのときなのです。
「ペテロは、口を開いてこう言った。
『これで私は、はっきりわかりました。神は(ユダヤ人だけを救うというような)かたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、(イスラエルの)神に受け入れられるのです。
(イスラエルの)神は、神の御子イエス・キリストによって平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫(アブラハム、イサク、ヤコブの子孫である選びの民ユダヤ民族)に(救いの)みことば(すなわち、神のことばである神のひとり子)をお送りになりました。この神のひとり子イエス・キリストはすべての人の主です。(ユダヤ民族だけの主ではありません。あらゆる国、あらゆる言語、あらゆる民族、また、すべてのものを造られた神の御子であり、創造主です)
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、(ユダヤ人たちの間を)巡り歩いて良いわざ(神のわざ)をなし、また悪魔に制せられているすべての者を癒されました。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。(ナザレのイエスが神の御子キリストであることの証人です)(神を恐れない)人々はこの方(キリスト)を木にかけて殺しました。
しかし、神はこのイエスを三日目に甦らせ、現われさせてくださいました。
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たち(十二使徒と弟子たち)にです。(ほかのユダヤ人たちには現われませんでした)私たちは、イエスが死者(墓)の中から甦られて後、ごいっしょに食事をしました。
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。(イエスの弟子たちがともに過ごしたナザレのイエスは聖書に書かれたキリストであり、十字架で世の罪を取り除く贖いの血を流し、死から甦り、復活のからだで現われ、聖霊のバプテスマを授ける権威を神から受けられたキリストです。イエス・キリストは、罪を取り除く贖い主であり、世の滅びから救う救世主であり、とこしえに生きる方、そして、神が裁き主として定め、神の民を裁く裁き主なのです)
イエスについては、預言者たちもみな、この方(神の御子イエス・キリスト)を信じる者はだれでも(律法を守れない罪人であっても無割礼の異邦人であっても)、その名(イエス・キリストの御名)によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(聖書の中に書かれた永遠のいのちは、神の御子イエス・キリストによって与えられることが書かれているのです)」(使徒10:34-43)
ペテロは話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、イエスの弟子たちがエルサレムで体験したときと同じように、聖霊が下られました。
聖霊に示されて、異邦人のコルネリオのところに来たペテロは、順次に、神の御思いを知っていきました。
まず、無割礼の異邦人であっても、神は、神を恐れかしこむ者の祈りを聞いておられ、神に受け入れられること。
そして、ユダヤ人は、神がきよめられた異邦人を汚れた者として退けてはならないこと。ユダヤ人は、異邦人の御救いのために宣教しなければならないこと。
また、神は、割礼のしるしもなく、律法の下にもいない異邦人の中にも、神のみことばを聞いて素直に信じる者があることを知らされました。イスラエルの神を信じる信仰は、聖書の民ユダヤ民族だけのものではないのです。
また、イスラエルの神は、そのような異邦人の信仰を受け入れて、信仰のしるしである御霊(心の割礼)をお授けになられること。確かに、イスラエルの神は、異邦人をも、神の民として認め、御救いの契約のあるユダヤ民族の救いの中に加えてくださるのです。
イスラエルの神は、聖書のない民のうちから異邦人たちを御救いに招き、神の御子イエス・キリストの御名によって彼らを救い、イスラエルの神の選びの民とされるのです。
神は、異邦人にも、御使いを現わされました。そして、救いのことばを持つ聖書の民から、福音を聞くように促されました。
神は、聖書の民を聖霊によって導き、異邦人たちの御救いのために、彼らを遣わされます。
終わりの時代には、聖書を信じる異邦人(新しくイスラエル〈神の民〉に加えられたキリスト者)たちが聖霊に導かれて御霊に聞き従うならば、異教徒たちにも、聖霊が注がれるという神の栄光を目撃することでしょう。
神は、生ける神を恐れ、真実な信仰の人々を招いて、永遠のいのちを得させ、とこしえのイスラエルの民に加えられるからです。