ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスを信じた指導者

 

 「パリサイ人の中にニコデモと言う人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。 

 『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるし(カナの婚礼で、水を葡萄酒に変えた奇蹟)は、だれも行なうことができません。』

(律法の奴隷であるユダヤ人の指導者たちは、イエスを神の人と認めていません。神の民を惑わす者だと信じていたからです。その中で、ニコデモはイエスを神の人として知る人でした。「私たち」と言っていますから、ほかにもいたのでしょう。しかし、彼らには勇気がありませんでした。ほかの指導者たちを恐れていました。ユダヤ人の指導者でイエスの弟子になる者はいなかったのです。イエスを神の人と信じることは、無学の人のすることだとされていたからです。それで、彼らは夜に隠れてやって来ました)

 イエスは答えて言われた。

 『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』

 ニコデモは言った。

 『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることでしょうか。』

 イエスは答えられた。

 『まことに、まことに、あなたに告げます。(本当に大切なことを語るときに、イエスは必ず、このように言われました)

 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

(神が遣わされたキリストにお会いするために、「天の御国が近づいた。悔い改めよ。」と叫んで、ユダヤ人を悔い改めさせ、水のバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネのもとにユダヤ人たちは押し寄せ、水のバプテスマを受けていました。しかし、祭司長やパリサイ人など、ユダヤ人の指導者たちは、ヨハネからバプテスマを受けることはありませんでした)

 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

(神の国は、律法の契約によってはいるのではなく、神が遣わされたキリストを信じる信仰によってはいるのです。神の御霊に導かれる者がはいるのです)

 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたし(イエス)が言ったことを不思議に思ってはなりません。

(神の国は、聖書の知識ではなく、御霊によらなければわからないのです。事実、律法の専門家たちは神から出た神の御子イエスを否定し、無学なユダヤ人たちはこぞって水のバプテスマを受けて、キリストを迎える備えをしたのです)

 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

(御霊は、風のように姿かたちはない。しかし、草木がなびくのを見て、風があることを知るように、御霊によって生まれた者が神の国の価値観を得る、すなわち、思いが変えられるのを見て、御霊が訪れたことを知るのです)」

 ニコデモは答えて言った。

 『どうして、そのようなことがありうるのでしょう。』

(律法の文字が神と思っている人には、生きて働く神がわからないのです)

 イエスは答えて言われた。

 『あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたし(神の御子イエス)が地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

(ユダヤ人の聖書には、ダビデの子と呼ばれる「人の子」(神の御子)がイスラエルを救うメシアとしてイスラエルに遣わされることが書かれています。このキリストは天から下って来るのです。それが、ナザレのイエスであり、神の御子です)

 モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子(キリスト)もまた(木にかけられ)上げられなければなりません。

(神に逆らい毒蛇に噛まれて死んでゆくユダヤ人たちでも、木にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見た者は生きたように、死と裁きに定められた罪人でも、木にかけられた神の子羊〈イエス・キリスト〉を仰ぎ見る者は生きるのです)

 それは(人の子があげられるのは)、(呪いの木にかけられたキリストを)信じる者がみな、人の子(神の子羊イエス)にあって永遠のいのちを持つためです。』」(ヨハネ3:1-15)

 

 聖書をよく学んでおり、神の国の律法として捉え、文字の律法を守ることを神に忠実なことと捉える指導者たちは、律法の罠に捕えられていました。

 目の前に、人の姿で来られた神のひとり子がおられ、イスラエルの神のことばを語っておられるのに、指導者たちには、わかりませんでした。

 彼らは、聖書を霊的なものとして信じているのに、霊の存在であられる神御自身を知らなかったのです。聖書をお与えになったイスラエルの神御自身がわからなかったのです。彼らの霊は、律法に塞がれ、霊なる神を捉えることができませんでした。

 

 無学な人たちは、自分自身で聖書を理解することができません。指導者によって教えられるのです。律法に無知な彼らは、律法の奴隷ではありませんでした。彼らは日々の生活の中で神を意識していたのです。彼らの霊は、神を知るために働いていました。

 

 ユダヤ人の民衆は、バプテスマのヨハネの「神の国が近づいた。悔い改めよ。」のメッセージに応答し、神の国にはいるために水のバプテスマを受けるという信仰がありました。彼らには、信仰があったのです。

 

 しかし、律法の奴隷の指導者たちは、信仰によって捉える者ではありません。人間の教えと知識に塞がれていました。

 その中で、ニコデモは、イエスが神の人だと信じる信仰がありました。しかし、無学の人たちのように単純に信じているわけではありません。

 

 イエスのしるしを見て、イエスとともに神がおられると確信したニコデモは、イエスのもとに行って尋ねました。しかし、民衆のようではなく、ほかのユダヤ人たちを気にして、人に見られることのない夜に訪れました。ニコデモは、律法の奴隷ではありませんでしたが、組織の奴隷だったのです。

 

 イエスは、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはなく、また、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはない。」と言われました。

 

 律法で救われるのではないのです。神の国とは、目に見えないものを見る霊の部分で捉え、人間が肉体で感じる「肉の感覚」よりも高い次元の「霊の感覚」で捉えるもののようです。霊の感覚で捉えるなんて、異教徒や悪魔のすることではないでしょうか。

 

 律法の中に真理を探究し追究して来た指導者たちには、イエスの言っていることが理解できません。ユダヤ人の律法とは異なる新しい教えのように聞こえます。イエスは、ユダヤ人の律法を否定する者なのでしょうか。律法の民を惑わし、騙す者なのでしょうか。

 

 ニコデモには、イエスを否定することができませんでした。イエスのことばは難解ですが、聖書の神から外れているとも思えません。

 イエスは、いつも、神を崇め、指導者たちの知らない真理を語っているようでした。指導者たちの教えでは神の国の実体を捉えることができません。ぼんやりしているのです。また神の国にはいる、はっきりとした確信が持てないのです。

 

 祭りの終わりの日に、イエスはユダヤ人たちに言いました。

 「だれでも(心が魂が)渇いているなら、わたし(神の御子イエス・キリスト)のもとに来て(天の聖所から流れるいのちの水を)飲みなさい。(キリストの授ける聖霊のバプテスマを受ける者は、聖霊〈生かす御霊、すなわち、永遠のいのち)を受けるのです)

 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、(キリストを信じる)その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

 

 このことばを聞いた群衆の間の間には分裂が起こりました。イエスを預言者と思う者もいれば、惑わす者と捉える者もいました。

 

 パリサイ人は言いました。

 「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

 しかし、その時、イエスのもとに夜たずねたことのあるニコデモは、「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのか。」と言いました。

 すると、彼らは言いました。「あなたも(イエスと同じ)ガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」(ヨハネ7:52)

 彼らは、イエスがダビデの町ベツレヘムに処女マリアから生まれたことを知らなかったのです。

 

 さて、イエスは十字架にかけられて、血を流し、息絶えました。

 イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ(議員)は、総督ピラトの許可を得て、イエスのからだを取り降ろしました。

 指導者たちに隠れていたニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来ました。

 彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いて、埋葬しました。(ヨハネ19:38-42)

 

 ニコデモは、イエスの弟子となっていました。

 指導者がイエスを信じることは命がけのことです。しかし、ニコデモの信仰は、イエス・キリストのうちにあったのです。