最初の人アダムは、神が食べてはならないと仰せられた「善悪を知る知識の木の実」を食べて、霊の目と耳が塞がれて、肉の目と肉の耳が開いた者となりました。
「善悪を知る知識の木の実」を食べる者は、必ず死ぬからです。神が仰せられたとおりでした。肉の目と耳が開かれた人は、霊的に死んだ者となりました。
神のいのちの息が吹き入れられた人は、神のいのちではなく、悪魔の死を選んだのです。それゆえ、神のいのちの息は人の中に長くとどまらなくなりました。
神が、人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを御覧になると、人の齢を百二十年と定められたからです。
人は必ず死ぬと仰せられた「善悪を知る知識の木の実」を食べて死ぬ者となりました。それで、非常に良かった被造物の秩序と調和は乱れ、神に喜ばれた人は、死に定められる罪人となったのです。
罪人が、罪あるままでいのちの木の実を食べたなら、罪あるままで永遠に生きてしまいます。人は、永遠に罪人です。悪魔や悪霊どもと同じ存在となってしまいます。
神は、「罪を犯した人が罪あるままで永遠に生きないように。」と仰せられて、いのちの木への道を塞がれました。人が、いのちの木からも実を取って食べてはならない、と仰せられたからです。
神に逆らい天から追放された堕天使の悪魔の食べ物(神のように賢くなって神よりも高いものになろう、とする高慢の木の実)を食べて、人は悪魔に似た者となりました。
悪魔と悪霊は、霊の存在ですから、肉の存在の人のように死ぬことがありません。霊のからだのまま永遠に生きるのです。永遠に、神に逆らう者、神に敵対する者として存在し続けます。
神の命令に背いたアダムは、エデンの園から追放され、死の国へと続く闇の世界に存在する者として、地上に暮らしました。
人は、神に愛された者です。
神の敵対者であり、破壊者の悪魔となった天使長ルシファーのように、自ら高ぶる心を抱いて神のことばに背いたわけではありません。
悪魔に騙されたのです。悪魔のことばを口に置く蛇にそそのかされた妻エバの声に聞き従い、アダムは「善悪を知る知識の木の実」を食べました。
アダムは、神よりも、自分のあばら骨から取って造られたエバを愛したのです。自分を造ってくださった神よりも、自分自身を愛したのです。
悪魔は、御子の主権を憎み、自分の主権を求めました。神の御主権に背く堕天使長は、神のひとり子に仕えることよりも自分を高くすることを願ったのです。
神のことば(神のひとり子)と一つであったアダムは、神のことばよりも己から取られたエバと一つであることを願いました。
悪魔も、人も、神よりも自分自身を愛したのです。
悪魔や悪霊どもには、神から離れて闇の中に居ることを苦しみません。
神の被造物を破壊することに喜びを持ちます。悪魔や悪霊どもに悔いる心はありません。
人は、神から離れることの苦しみを味わいました。生老病死の苦しみです。肉の人ゆえの苦しみです。彼らに霊のからだはありません。永遠に生きる望みはないのです。
望みのない暗い穴から、人は助けを求めます。彼らの魂はうめいているのです。
神は、苦しむ人を御覧になられました。神は、人を憐れまれました。
神には愛がありました。創造主は愛によって被造物を生んでおられたからです。
そして、人のうちに愛を御覧になりました。悪魔の食べ物(悪魔の言葉)を食べ、神のことばから外れた人ですが、彼らのうちには、神に愛された記憶が残っていました。
悪魔は愛を捨て、愛を憎む者ですが、人は愛に飢える哀れなものです。
神の愛は、罪人に注がれました。魂の嘆きを聞き、助けを捜し求める愚かな罪人のために、神は愛を現わされました。
私たちには、神がわかりません。
悪魔は、人に「神はいない、神の存在は無学で幼稚な者の教えだ。神の存在を信じるのは無知な愚か者。」と賢そうに言い含めます。
自分の賢さを誇る者たちは、悪魔の言葉を信じます。彼らは、「善悪を知る知識の木の実」を食べた罪人として生きているのです。
己が神であり、自分が良いと思うことに従って生きているのです。自分を高くすることで、何ものにも縛られない自由を得ていると思っています。自由こそが幸福だと信じています。
闇の世の中に平安を持つことのできない人は、自分と一つとなる何かを、そして魂の安息を求めています。信じられるものが欲しいのです。
愛とは裏切りのない信頼であり、見せかけでなく偽りのない優しさと、居心地の良い安らぎです。また、いのちの根源と繋がるアイデンティティーの固い基礎です。
私たちには、神がわかりませんでした。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(私たちの罪のための生贄の子羊イエス)を遣わされました。
神はそのひとり子(神の御子ナザレのイエス)を世に遣わし、その方(神の子羊イエス・キリスト)によって私たちに、(永遠の)いのちを得させてくださいました。」(ヨハネ第一4:10,9)
神の愛は、私たちに示されました。
人を造られ、罪人をお裁きになる神には、ひとりの御子がおられました。
父なる神は、ひとり子を世の救い主として遣わされたのです。
神は、そのひとり子を世に遣わし、その方(神のひとり子イエス・キリスト)によって私たちに、生老病死の苦しみから解放され勝利する永遠のいのちを得させてくださいました。
いのちの木に辿り着くことがないようにと、いのちの木を罪人から守られた神は、ひとり子を罪人の身代わりとして裁き、罪人の罪を赦して、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じる人たちを、神のことばの中にはいる「義人」としてくださいます。
神の御子イエス・キリストを信じる者は、神のひとり子を遣わされた父なる神を信じる者です。なぜならば、神が遣わされた救世主を信じることは、遣わしてくださった方の愛も受け取るからです。
私たちは、救世主イエス・キリストの仲介により、神と和解するのです。
神のことばから外れて、エデンの園から追放された罪人は、天から来られた救世主イエス・キリストを信じ従うことによって、神のことばの中にはいります。
神のことばから外れて悪魔の言葉の中に捕えられていた罪人は、神の救世主イエス・キリストを信じ、イエスに聞き従うことで、悪魔の言葉の呪いから解かれ、神のことばと繋ぎ直されるのです。
神は、天から遣わされた救世主イエス・キリストの執り成しによって、罪人の罪を赦されます。父なる神は、御子とひとつとなる人たちを天の御国に招かれます。
私たちに御子を与え、天の御国に招いてくださる神は、また、私たちに御霊を与えてくださいました。
天の御国へと導く案内人(ガイド)をも、遣わしてくださいました。
神が私たちを天の御国に招いてくださったのは、単なる約束事ではありませんでした。
招待状とともに、天の御国へまで導く御使いを遣わして、私たちを安全に守ってくださいます。そして、キリストの御霊を与えて、私たちもまた、キリストと同様に、死から甦り永遠のいのちを得させられるという約束の保証としてくださいました。
神の子羊の贖いの血で罪人の罪を赦された神は、私たちを、天の御国に招かれます。
神は、私たちが天の御国にはいるようにと、保証としての御霊を与えてくださいます。
神の招きは、口約束ではありません。
神は、天に招くために、ひとり子を遣わしてくださいました。
私たちは、感謝して、御子イエス・キリストの招きに応じました。
神は、私たちを天の御国へと導くために、もうひとりの助け主「真理の御霊」を与えてくださいました。
御霊は、キリストの足跡、いのちの道を歩むようにと真理を教え、正しい道へと導いてくださいます。
また、神は、ひとりひとりに神の御使いを遣わしてくださり、私たちを悪い者から守り、私たちの道を安全に守ってくださいます。
また、時が来れば、キリストは、天から迎えに来てくださいます。
そして、世のすべてが悪いものとなる時、神は、悪い者どもを滅ぼし、世を改められます。
世が改まり、キリストの治められる千年王国が始まると、世界中から、天の御国に招かれる者たちが、王の都(エルサレム)に来て、都の中にある「いのちの木の実」を食べ、永遠のいのちを得させられるのです。
「いのちの書」に名前の記されている人たちは、永遠のいのちを得させられることでしょう。
神が天に招かれるということは、実体のないものではなく、とこしえにある実在であり、とこしえの安息です。実質のないものではなく、確かなことなのです。
天地万物が闇の中に創造される以前から、永遠の昔からおられる神の御住まいです。
それは、招かれた人だけが知ることができるのです。