ペテロは、異邦人のコルネリオたちにも聖霊が注がれるのを見て、驚きました。彼ら異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからです。
この出来事を目にしたペテロは、キリストの福音は、異邦人の救いのためでもあった、ということを悟りました。
使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にしました。
しかし、異邦人たちにも聖霊が注がれるその場にいなかった彼らは、困惑していました。
「そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、『あなた(ペテロ)は割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。」(使徒11:2,3)
イエスが取税人のところへ行って食事をすることを、パリサイ人、律法学者たちがつぶやいて、『神から遣わされた聖者と噂されるイエスは、罪人とは関わらないという、イスラエルの掟を破って、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』と言いました。
聖なるイスラエルの神が遣わされた「神の人」ならば、汚れたものに触れず、聖でなければならないのです。
食事をするということは、互いの間に隔たりはなく、仲間であるというしるしです。また、不仲の者たちがともに食事をすることは、和解したしるしなのです。
罪人である取税人といっしょに食事をするイエスは、罪人の仲間とみなされても、しかたのないことです。
現在の日本で言うならば、やくざといっしょに食事をした有名人が、社会的信頼を失うことと同じです。
イエスは、パリサイ人たちのつぶやきに何と答えられたでしょう。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたし(救世主キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31,32)
イエスは神の民ユダヤ民族を神のみもとに導くために来られました。罪人を悔い改めさせ、天の御国にはいる者とするために来られたのです。
イエスは、指導者たちが正しく民を導いていないことを知っておられました。エゼキエル書34章の預言のとおりのことが、イスラエルに起こっていたのです。
「それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている(神はご覧になっている)、―神である主の御告げ。―
わたしの羊(ユダヤ民族)はかすめ奪われ、牧者(正しい指導者)がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者(主に油注がれた指導者)たちは、わたしの羊(神の民の病気の者や傷ついた者や神の教えの道から迷い出た者や失われたユダヤ人)を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼ら(羊にいのちを得させず、力ずくと暴力で羊を支配する悪い牧者たち)のえじきにはさせない。
まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れ(牧場に散り散りに広がっている羊の群れ)の世話をするように、わたしはわたしの羊(神の民)を、雲と暗闇(不信仰の惑いの雲と神の懲らしめ)の日に散らされたすべての所から救い出して、(主御自身が失われた羊の)世話をする。
わたしは国々の民の中から彼ら(アブラハムの子孫)を連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて帰り、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。」(エゼキエル34:8-13)
「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼ら(悪い牧者によって弱っていた羊たち)をいこわせる。―神である主の御告げ。―
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼ら(神の民)を養う。」(エゼキエル34:15,16)
神のひとり子イエスは、神の民の失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけるために来られたのです。
神の御子イエスはご自分の民ユダヤ人の間を歩き、病人を癒し、罪人を暗闇から解放し、悪霊に憑かれた者から悪霊を追い出し、失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、ユダヤ人たちに神の愛を知らされました。
イエスは、律法を守っている正しい者であると自負し自分の義に立っている者たちを捜すためではなく、助けを必要として弱っている、霊的に病んでいる者たちのところに行かれました。
イエスは、神を知らない祭司やパリサイ人たちに、羊を託されません。ご自身で羊を養われます。
「わたし(まことの羊飼いである神の御子イエス・キリスト)がわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」と言われるからです。
牧者たちは、弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で支配して、羊を養いません。羊たちは、牧者がいないので、あらゆる野のえじきとなり、散らされています。
まことの羊飼いであるイエス・キリストは、肥えたものと強いもの(羊から搾取して自分を養う悪い牧者や、羊を支配する悪い指導者)を滅ぼされ、魂の牧者であるイエス・キリストは、正しい裁きをもって彼ら(神の民)を養われます。
イエスは、神の御子キリストを信じず、羊たちにも信じさせない悪い指導者たちを怒り、彼らに永遠の裁きを宣告されました。彼らは、羊たちが信仰の道にはいるのを妨げたのです。
そして、弱っている羊には、癒しと慰めを与え、神の愛を現わされました。罪人たちは、イエス・キリストを信じました。
罪人は、悔い改めて、神に立ち返ったのです。
イエスは、いのちの主のもとに来させない悪い牧者たちを怒り、羊を養わない牧者たちから羊たちを救い出し、弱っている羊たちを彼らのえじきとはされません。
祭司長やパリサイ人たちは、イエスを律法の違反者であるかのように訴え、また、イエスを処刑した後には、イエスの弟子たちを迫害しました。
律法の専門家たちは、生ける神の遣わされた神のひとり子イエス・キリストがわからなかったのです。そして、自分たちの方が律法を守る正しい者、神に受け入れられるユダヤ人であると自負したのです。
異邦人たちが神のみことばを受け入れた、ということを耳にした使徒たちもまた、異邦人の救いを信じず、かえって、割礼のない人々(異邦人)のところに行って、異邦人といっしょに食事をしたペテロを非難しました。
御霊は、ペテロに「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と示し、異邦人のコルネリオのところに行く道へと導かれました。
ペテロから出たことではなく、聖霊から出たことだったのです。ペテロ自身も半信半疑でしたが、信仰によって御霊に聞き従うと、そこで、異邦人に聖霊が下るのを見たのでした。
聖霊を受けて神を賛美するコルネリオたち異邦人を見たペテロは、彼らにも、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように命じたのです。
ペテロは、事の次第を順序正しく説明しました。御霊に聞き従って、コルネリオのところに行き、復活のイエス・キリストの福音を語っていると、その話に耳を傾けていたすべての異邦人に聖霊がお下りになったのでした。
ペテロは、使徒たちに言いました。
「私(ペテロ)はそのとき、主(ナザレのイエス)が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。
こういうわけですから、私たち(ユダヤ人)が主イエス・キリストを信じたとき、神が私たち(イエスの弟子たち)に下さったのと同じ賜物(御霊)を、彼ら(異邦人)にもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。(ペテロは、イエス・キリストの使徒です。主イエスが、ご自分を遣わされた神に聞き従われるしもべであったように、ペテロもまた、自分を遣わされたキリストの御霊に聞き従っただけです)」(使徒11:16、17)
「人々はこれ(ペテロの説明)を聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』と言って、神をほめたたえた。」(使徒11:18)
使徒たちもユダヤにいる兄弟たちも、聖霊のバプテスマを受けた人々です。イエスのことばを聞いても、神のみことばであることが理解できなかった祭司長やパリサイ人たちとは違います。
彼らは、聖霊によって、御霊の証しを受け入れることができました。
聖霊を受けているからと言って、すぐにわかるわけではありません。人はまず、自分の知識と経験によって判断します。
しかし、御霊の助けによって悟り、神の栄光を認め、神のみわざをたたえる者とされるのです。これも、神の御霊の働きです。
イエスの弟子たちに聖霊のバプテスマを授けられたキリストは、キリストの福音を携えて行く弟子たちを、イエス・キリストの御名により聖霊によってバプテスマを授ける者とされます。彼らは、新しい人を創造される神の働きの協力者なのです。
キリストの弟子たちは、聖霊を授けてキリストの御霊(永遠のいのち)を得させる働きをし、キリストのとこしえのからだである「御霊の教会」を建て上げていく働きをするのです。
終わりの時代、地上に聖霊の雨が降り注ぎます。神道や仏教やそのほかの宗教や無宗教の人々にも啓示の光が注がれると、贖いの子羊と子羊の父(生けるまことの神)を知ることでしょう。
その時、律法に仕える聖書の民は怪しむでしょう。しかし、生ける神に仕える御霊の民は、神をほめたたえることでしょう。