「正しい道(神が用意されたいのちの道)を捨てる者には(神の)厳しい懲らしめがあり、(神の)叱責を憎む者は死に至る。」(箴言15:10)
天地万物を造られた創造主であられる全能の神は、いのちを得よと、人にいのちの道を現わしてくださいました。
すなわち、人の子となられた神のひとり子を遣わし、御父であられる御自身と、愛と調和と平安と喜びに満ちたとこしえの天の御国と、天の御国にはいるための永遠のいのちを神の民イスラエルに知らせ、隠されていた真理を明らかにされました。
真理とは、不変で普遍のもの、すなわち、永遠に生きておられる神であり、神の御住まいである天の御国であり、全き光に満ち満ちた真理の御霊であり、永遠のいのちです。
天の御国の神は、御座におられる父なる神と、人の子として地に遣わされた子なる神イエス・キリストと、聖霊【真理の御霊】です。
神の御子は、罪の贖いの血を流された神の子羊であり、死から甦り、聖霊のバプテスマを授ける権威を、御座におられる方(父なる神)からお受けになったキリスト・イエスです。
神は、イエス・キリストの御名によって、神の御子イエス・キリストを信じる者に、真理の御霊を授けられます。
人は、神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じて罪が赦され、キリストの御霊を受けていのちを得ます。
真理は、キリストの御名によって授けられる真理の御霊とともにあります。御霊がイエス・キリストのみことばを思い起こさせ、真理を教えられるのです。
真理の御霊は、死に定められた人を、死からいのちへと移してくださいます。
人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっています。最初の人アダムの罪の裁きはまだ執行されていないのです。
人は必ず死ななければなりません。また、必ず死後に魂の所有者であり霊をくださった神の御前に立ち、裁きを受けなければならないのです。
神に裁かれる罪人はみな、火の裁きが定められています。火によって滅ぼされます。
私たちが、天の御国ではなく地上で生きているのは、永遠のいのちを持っていないからです。永遠のいのちがなければ天の御国にはいることができません。永遠のいのちがないのは、罪があるからです。
永遠のいのちを持つ者は、神に裁かれることがなく、火に滅ぼされることもなく、義の冠を受けて天の御国にはいります。
いのちの道は、神の御子イエス・キリストを信じ、真理の御霊を受けて、キリストの血の贖いと生かす御霊(永遠のいのち)と御父の愛と御救いの恵みとをほめたたえ、神に感謝して歩む道であり、天の御国へと続く道です。
永遠のいのちを得ることが、天の御国にはいる者の条件です。永遠のいのちのない者は、天の御国にはいることがありません。
神は、世を愛されました。火で滅びることがないようにと、ひとり子を遣わし、救いの道を用意されたのです。
人は自分の力で聖くなることはできません。天の御国に相応しい者になることができません。神が聖であられるので、天の御国も聖であり、天の御国にはいる者も聖でなければなりません。
聖なる神御自身が、罪ある人を天の御国に招くために、愛するひとり子を、悪に満ち汚れに満ちた世に遣わされました。全き聖なる神の御子が肉体を持つ人の子となられたのです。
神は、ひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。
神は、生贄の神の子羊として、神の御子ナザレのイエスを屠らせなさいました。神の子羊ナザレのイエスの肉を裂いて、人の罪の身代わりとし、神の子羊イエス・キリストの血を流して、世の罪を贖われました。
神は、子羊イエスを死から甦らせ、復活のからだで天に上らせて御座の前に導き、聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになりました。罪の贖いの子羊イエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられたのです。
十字架にかけられたナザレのイエスは、永遠のいのちを得させるキリストとなられました。子羊の栄光はとこしえの栄光です。子羊イエス・キリストは、御座の右に着座されました。
聖霊のバプテスマを授けるキリストは、贖いの子羊イエス・キリストを信じる者に、真理の御霊を授けられます。復活のキリストの御霊を分け与えられるのです。
御霊を受けて御霊に教えられる人は、神の子羊イエスが死から甦り天に上られたのと同様に、永遠のいのちを得させられて一度死んでも甦り、天の御国にはいります。
「嘲る者は叱ってくれる人を愛さない。知恵のある者にも近づかない。」(箴言15:12)
御霊は、天の御国はいるのにふさわしい神の子どもへと新しく造り変えていかれます。神は、「アバ、父。」と呼ぶ御霊を宿す人を懲らしめられます。それは、彼が神の子どもだからです。
しかし、懲らしめを憎む人は、永遠のいのちの約束を忘れて、神を憎みます。彼は、永遠のいのちを得させてくださる神の愛がわからないのです。
そして、忠告してくれる人々を遠ざけます。
いのちの道を捨てる者には、神の厳しい懲らしめがあります。それは、彼に永遠のいのちを得させるための神の愛です。彼が我に返り悔い改めて神に立ち返るならば、永遠のいのちを得ます。
しかし、叱責を憎み懲らしめを避ける者は、いのちの道から外れて死に至ります。彼にとって、キリストの死は無駄なこととなります。
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。
訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。
叱責を聞き入れる者は思慮を得る。
主を恐れることは知恵の訓戒である。
謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言15:31ー33)
神を恐れる心、また、謙遜な心は、救いを得させる良い思慮です。神を恐れることなく、また、謙遜でない者は、永遠のいのちのことを聞き、それを知っていながら、自分のいのちをないがしろにする者です。
「いのちを得よ。」と仰せられる神の、いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、永遠を思い神を恐れる知恵のある人たちの中に留まります。
使徒パウロは言います。
「(イエスの教えと)違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの(永遠のいのちを得させる)健全なことばと(神を恐れる)敬虔にかなう教えとに同意しない人(反発する人)がいるなら、その人は(救い主イエス・キリストの教えを忘れて)高慢になっており、(真理を)何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、妬み、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を(自分自身の)利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益(とこしえの宝である永遠のいのち)を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、(世の)誘惑とわなと、また(偽りと欺きの言葉で)人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分(の魂)を刺し通しました。
しかし、神の人よ。(御霊の人よ)あなたは、これらのこと(信仰から迷い出る道)を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。
あなたはこのために(永遠のいのちを得させられるために、神に)召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白(キリストの福音に従順であり、永遠のいのちを得させられる神を礼拝)をしました。」(テモテ第一6:3-12)
イエス・キリストを救い主と信じても、永遠のいのちを持たない者は、神の愛を受け取っていません。
神の愛は、罪を赦すことと滅びの世から救い出すことで終わりではないのです。
神に召されたモーセは、神の契約の民イスラエルを、奴隷の家エジプトから連れ上り、カナンの地に導き入れて先祖の地(父祖アブラハムの相続地)を相続させるために、荒野へと導きました。
しかし、不信仰で不従順なイスラエルは、荒野で神につぶやき、神に罰せられて、エジプトを出て来た六十万人の成人男子のうち、神の約束から目を離さず、カナンの地に希望を持って神に信仰を持ち続けたヨシュアとカレブのふたりを除いた成人男子はみな、荒野で死に絶えました。
カナンの地の約束を受けていながら、カナンの地にはいることはありませんでした。エジプトからイスラエルを救い出し、荒野に導き上ったモーセも、神に大祭司の油を注がれたアロンも死に絶え、カナンの地にはいることができませんでした。
御霊を受けて、永遠のいのちの約束を得、天の御国にはいるためにこの世の荒野を行く私たちも、ヨシュアとカレブのように、神の約束に望みをおいて信仰を全うしましょう。
「多くの証人たち(先人たちの信仰と執り成し)が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの(この世の)重荷と(わずらいと)まとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている(信仰に勝利するための)競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(イエスは、永遠のいのちを得させる聖霊を授ける「キリスト」となるために、あらゆる反抗と嘲りと憎しみと殺意にも耐え、十字架の死をも耐え忍ばれました。復活のいのちを得るために、肉体の死を耐え忍ばれたのです。私たちも、先人たちの信仰にならって、死に勝利し死から甦られた復活のキリスト・イエスから目を離さず、キリストが授けてくださった御霊とともに歩み、神の御住まいである天の御国にはいるために、永遠のいのちを得させていただきましょう)」(へブル12:1,2)