ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ああ恵み

 

 最近、わたしの頭の中では、聖歌593の「ああ恵み」がこだましています。

 気がつくと、頭の中でその賛美をしているのです。心ではなく、脳内に響いています。

 

1.罪に満てる世界 そこに住む世人に「いのち得よ」とイエスは血潮流しませり 

  ああ恵み 測り知れぬ恵み ああ恵み 我にさえ及べり

2.罪は海のごとく わが心おおえど 神はさらに強き恵みもて救えり

  ああ恵み 測り知れぬ恵み ああ恵み 我にさえ及べり

3.「たれぞ 我の罪をことごとくあろうは」「見よ血潮はなれを雪よりも白くせん」

  ああ恵み 測り知れぬ恵み ああ恵み 我にさえ及べり

4.たえに奇しき愛を 限りなき恵みを 今ぞ たれも受けよ ためらわずそのまま

  ああ恵み 測り知れぬ恵み ああ恵み 我にさえ及べり

 

 罪に満ち、神を恐れない世界に住む世の人たちに、神の御子イエスの方から歩み寄って、死の定まった死人の霊に「いのち得よ」と、ご自分の血潮を流してくださいました。

 こんな恵みがあるでしょうか。裏切られた神の御子の方が、裏切った人を赦すために、ご自分の血を流して、父なる神に、赦しを請うてくださったのです。

 私たちは自分が罪を犯したことを知らず、また、神の存在も認めず、神に赦しを請うどころか、生老病死の苦しみを許しておられる神を恨んでいたのです。

 

 罪は海の大波のように寄せて来て、私の心を誘惑して来ます。しかし、神は、罪の大波を鎮めるほどの強い抵抗力をもって私たちを罪から救い出してくださいます。

 なんという恵みでしょうか。私の心は「救いの君」から離れ、海の海草のように世の荒波に揺れ動き、当てにならない弱くも卑しい者なのに、あなたは価値ある宝のように、私の魂をあなたの懐に抱いてくださいます。

 

 「誰か助けてください。私はきよくありたいと願っているのに、私の心は罪だらけです。私の心を洗ってください。誰か、私の罪を洗い流し、私を汚れのない者としてください。」

 神の子羊イエスは言われます。「見なさい。あなたはあなたの罪を贖う主キリストの血によってきよくされた。キリストは、緋よりも赤いあなたの罪を、雪よりも白くする。」

 ああ恵み。計り知れない恵みです。いつ、私はあなたを求めましたか。いつ、私はあなたの御名を呼んだのでしょうか。

 私たちはあなたを知らなかった。しかし、あなたは私を捜し見つけてくださった。そして、永遠のいのちを私たちに得させるために、「いのち得よ。」とご自分の血を流してくださいました。

 

 とこしえにくすしい愛をもって、永遠の愛をもって愛し、そして永遠のいのちを得させてくださる、神のとこしえの恵みを、誰でも受けなさい。私にはふさわしくないとうつむかず、また、受けてよいかどうかとためらわず、そのまま信じて神の御子イエスの愛を受け取りなさい。

 それは、あなたに訪れた恵みです。あなたに届けられた神の愛です。生けるまことの神を信じていなかった私にも、「いのち得よ。」と訪れてくださいました。

 

 救いは、神の恵みです。

 時々、どうして、私が?と思います。どうして、キリスト教と縁のなかった私が、イエス・キリストを信じることができたのか?

 そして、神に出会う以前のことを思い返すと、身震いするほどの恐怖と崩れ落ちるような絶望的な思いになります。

 あのまま、この世の流れの中を、何の疑問も感じずに生きていたら、死に向かう人生だったことでしょう。本当にいのち拾いしました。

 

 信仰を得ている人も、振り返ってみてください。今、私たちは、永遠の希望を持っています。今ある自分は、神の一方的な恵みによるのです。

 

 ほかの人たちにキリストの福音を伝えるとき、とてももどかしく思います。だれも、救い主を求めていないのです。

 救い主を求めるのは弱い人間のすることだ。よっぽど、つらいことがあったのか。あなたには必要でも、私には関係ない、と思うのです。

 

 また、世の人は罪という言葉に反発します。私もそうでした。クリスチャンたちとの交わりに疎外感を感じたものでした。罪人呼ばわりされることに抵抗を感じます。

 罪の贖いの恵みは、伝わりません。ただ、愛されたいのです。そのままで良いと言ってもらいたいのです。

 

 私たちの罪の身代わりになって死なれた方の愛は響きません。まず、自分自身の罪がわからなければ、贖いの恵みを知ることはないのです。

 

 自分の罪がわかるから、神に赦されることの恵みに涙して、神の大きな愛を知るのです。そして、神の御救いが、どんなに計り知れない恵みであるのかがわかるのです。

 

 救い主イエス・キリストを信じることができるのは、人生最大の恵みです。

 勝利する人生です。神は、人生の勝利者としてくださいます。魂の父のみもとに帰るのです。死は恐れではありません。死後、迷わず、いのちの根源である全き光に向かいます。闇ではなく光です。

 死んでも甦り、永遠のいのちと復活のからだを得させられ、私たちを命がけで愛してくださる方の愛と平和と喜びと聖さと光と平安の中に帰るのです。

 

 どうして、信じることができたのでしょうか。これこそ、恵みです。信仰と希望と愛とは、神の恵みなのです。

 

 かつて、イエスが神のひとり子であることが信じられず、また、愛が何なのかも知らなかった私です。

 聖書の中に真理があると素直に感じた私ですが、クリスチャンたちの交わりに疎外感を覚え、孤独を感じました。

 私の中に信仰がないことと、イエスを愛する愛がないことが、私を孤立させているのだと思いました。

 

 信仰はどうしたら得られるのか。どうしたらイエスを愛せるのか。自分の力では信じることも愛することもできません。真理の光に出会いながら、私には信仰も希望も愛もないのです。

 「神を信じる信仰と、イエス・キリストを愛する愛を下さい。」

 「本当にイエス・キリストが神の子どもならば、私にわかるように教えてください。」

 

 神は、わたしの祈りを聞いてくださいました。

 そして、答えをくださいました。

 

 神は、知識や理屈ではなく、聖書のみことばからでもなく、直接、霊によってイエス・キリストが神の御子であることを教えてくださいました。私にわかる方法で啓示してくださいました。

 

 夢で知らせ、天に現われたしるしで、はっきりと悟らせられました。私の頭をおおっていた惑いの黒雲が消え、晴れ渡ったようでした。瞬時に理解できました。

 神は、頑なな心の私に、信仰を着せてくださいました。私は素直に信じたのではありません。神御自身が、右も左もわきまえない愚かな私に、神を信じるという新しい心をくださったのです。

 

 神の恵みです。計り知れない恵みです。

 この恵みが、ユダヤ人を知らない異邦人の私にも及びました。