ヘロデ王はユダヤ人たちの歓心を得るために、使徒ペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に厳重な監視をさせました。
ペテロは牢に閉じ込められており、教会はペテロのために、神に熱心に祈り続けました。
「ところでヘロデ王がペテロを引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい。』と言った。すると、鎖が彼(ペテロ)の手から落ちた。
そして御使いが、『帯を締めて、靴をはきなさい。』と言うので、彼はそのとおりにした。すると、『上着を着て、私について来なさい。』と言った。
そこで、外に出て、御使いについて行った。彼(ペテロ)には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
彼ら(御使いとペテロ)が、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼(ペテロ)を離れた。
そのとき、ペテロは我に返って言った。『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、(イエスの弟子たちに殺意を抱く)ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私(ペテロ)を救い出してくださったのだ。』
こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。」(使徒12:6-12)
使徒時代は、御霊の働きが顕著に現われました。
天に上られた復活のキリスト・イエスによって、聖霊のバプテスマを授けられたイエスの弟子たちは、神の御子イエスと同様の神のみわざを体験しました。
また、御使いの現われを体験しました。
イエスが墓から甦られたことを、墓に来た女たちに告げたのは、御使いでした。
イエスが使徒たちの見ている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなったとき、天を見つめていた弟子たちに、「なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(あなたがたがイエスが天に上って行かれる有様を目で見たように、終りの日のユダヤ人たちは、栄光のキリストが再び天から来られる姿を肉眼で見るのです)」と告げたのは、白い衣を着た御使いたちでした。
神は、神の聖徒たちに御使いを遣わされます。
また、神は、神の伝言を御使いに託されます。
処女マリアは、御使いによって、懐妊することを知りました。
羊飼いたちは、御使いによって、「きょうダビデの町(ベツレヘム)で、イスラエルのために、救い主(主キリスト)がお生まれになりました。」と告げられました。
神のことばは、預言者たちに託され、また、神は、御使いをも遣わされます。
異邦人にとって、御使いの現われは不思議なことですが、神の民ユダヤ人たちは現実世界で御使いに会っていました。
ペテロもまた、御使いを体験しました。
しかし、ペテロには御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われました。
御使いに従ってついて行くと、何の妨げもなく、すんなりと牢から出ることができました。どうやら、神は、二本の鎖につながれたペテロの両脇に居た兵士たちには、深い眠りを与えておられたようです。
四人一組の兵士四組に監視させていた厳重な警備も、神の前ではもろいものです。監視されているはずの衛所に、ペテロの歩みを妨げる者はいませんでした。
鉄の門はひとりでに開きました。進むすべての道がスムーズです。夢を見ているのか、幻を見ているのか、と現実の事と思われなかったペテロは、門から外に出て通りを進んでいるうちに、御使いがいなくなったとき、我に返りました。
現実の事でした。確かに、神は、御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、イエスの弟子たちに殺意を抱くユダヤ人たちの計画するすべてのわざわいから、救い出してくださったのです。
教会は、牢に閉じ込められたペテロのために、心ひとつにして、神に熱心に祈り続けていました。
神は、教会の祈りに答えて、ペテロの所に御使いを遣わし、ペテロを救い出されました。御霊は教会とともにあり、御使いもまた教会に仕えて働いているのです。
一方、ペテロを監視していた兵士たちは、その失態の責任を取らされて、ヘロデ王の命令によって処刑されました。
「さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼ら(ツロとシドンの人々)はみなでそろって彼(ヘロデ)をたずね、(ヘロデ)王の侍従ブラストに取りいって和解を求めた。その地方は(ヘロデ)王の国から食糧を得ていたからである。(ツロとシドンとの人々は、ヘロデの怒りに触れていたので、その民どもは一同うちそろって王をおとずれ、王の侍従官ブラストに取り入って、和解を求めました)
定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
そこで、民衆(ツロとシドンの人々)は、『(ヘロデの声は)神の声だ。人間の声ではない。』と叫び続けた。
するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼(神に打たれたヘロデ)は虫にかまれて息が絶えた。」(使徒12:20-23)
エドム人のヘロデが王であることは神が許されたことでした。神の許しがなければ、だれも、権力者になることはできないのです。
ツロとシドンの人々が王の権威を恐れて、ご機嫌取りをしているだけなのに、ヘロデ王は口々にほめそやす彼らの称賛に酔いしれました。
神のしもべペテロにひどいことをしたヘロデの心は高ぶり、人間の媚びへつらいによって、滑りやすい所に置かれました。ヘロデの心は、王の権威をお与えになった神に栄光を帰さず、人々からほめそやされることでつけあがりました。
神に聞き従う神の御子キリスト・イエスのしもべ「ペテロ」に、神は、牢から救い出してペテロを助ける御使いを遣わされました。
一方、神は、高ぶるヘロデ王に、ヘロデを打って息絶えさせるために、主の使いを遣わされました。
神は、聖徒の働きには、祈りの人々を備えられます。執り成す人々を起こされるのです。
ペテロが牢に閉じ込められていた時、教会はペテロのために、熱心に祈っていました。
神は、神を神としない悪人に、有頂天になるような状況を許されます。彼にとって祝福のように思えるその状況は、彼が落ちる時なのです。
神の聖徒が窮地に陥った時、神はどこかに執り成し手を起こしておられるのかもしれません。そして、その状況にあって、神を体験するのです。
「るつぼは銀のため、炉は金のために(純金を取り出すために)あるように、他人の称賛によって人は試される。」(箴言27:21)
神は、神の御国の子らのために、御使いを遣わして、救うことをされます。
神は、悪人を試し、悪人を罪に定めるために、主の使いを遣わして罰することをされます。
主の御使いは、神の御心を成し遂げます。
祝福のために遣わされるのか、打つために遣わされるのか、人の心の向く方向にしたがい、神は遣わされるのでしょう