子どもの頃、道で転ぶと、駆け寄る母がいつもかける言葉がありました。
抱き起すことはありません。ただ、しゃがみこんで、泣き出そうとしている私の目を見つめて、言うのです。
「転んでも、ただ起きるな。何かを掴んで起きろ。」
べそをかく前に、私はその言葉を聞くと、「うん?なに?何をつかむの?」と意識がそちらに向かい、泣くのを忘れてしまいます。
起き上がった時には、転んだ痛みではなく、何故か生還したような気持ちになっていました。
このことを大人になってから七歳離れた姉に言うと、「私の時もそうやった。」と言いました。同じ母親に育てられていたんだな、と改めて思いました。
何か悪い事が起こると、「何故?なぜ、私が?」と思ってしまいます。
私が不信仰ゆえに結核になって入院した時、「なぜ」の問いには答えが出ないことに気づきました。
そして、私の意識は、私という自分から、神に向けられました。そして、祈りました。「神はこの事を通して、何を、私に教えようとしておられるのですか。」
何のために、この事が起きたのかを探ろうとしました。
すると、波立つ心はなぎとなり、神の答えを待ち望んで静かになりました。私の心は神の御旨に集中しました。
なかなか答えは与えられません。ただ、結核という病気と、入院しているという現実に意識が向けられました。早く良くなるように、毎食きちんと食べて、この機会に聖書を読み神に祈る祈りの時間を持とう、という考えに至りました。
聖書から、神は語ってくださいました。
「わたし(イエス・キリスト)がしていることは、今はわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)
聖書を読んでいる時に、まるで、私に語られているかのように、心に響くみことばがあります。レイマというそうです。生ける神が直接、その人の魂に語りかける言葉として、聖書のみことばが迫って来るのです。そのみことばは、ただのみことばではありません。神御自身が、その時の私に語られる言葉なのです。
また、私の場合、神にみことばを求める時、聖書を手に持ち、今の現状を打ち明けて「どうか、主よ。私におことばを下さい。」と祈り、パッと開いたページの、パッと目に入ったみことばを読むと、それが本当にレイマとして受け取るみことばである、という事が多くあります。また、ピンとこない場合、何度もくり返してやっとたどり着く事もあります。
聖書の中に、十二使徒のイスカリオテのユダが脱落したあとで、ユダに代わるもうひとりの使徒を選出するときに、くじ引きをして決めた事が書かれています。
旧約聖書では、多くの場面で、くじ引きをしています。
律法に厳格なパリサイ人であった使徒パウロは言います。
「ある日を、他の日と比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。
(信仰によって)食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(日を守るのも日を守らないのも、また、食べるのも食べないのも、それぞれの信仰によるのです。)」(ローマ14:5-6)
生ける神の信仰は、律法のような戒律によって、定まっていないようです。信仰は、生ける神との交わりなのです。神は、人に自由を与えておられます。
ユダヤの食物規定に反して食べる人は信仰が弱くて、食べない人は信仰に立つ強い人かと思いきや、実に、信仰によってなされることは、どちらも神に受け入れられるというのです。しかも、食べる人の方が律法に縛られておらず、生ける神に信頼する信仰の強い人として書かれています。
新約聖書には、食べ物についてこのように書かれています。
「市場に売っている肉は、良心のゆえの詮索をしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
もし、あなたがたが信仰のない者(不信者)に招待されて、そこに行こうと思う場合、いちいち良心に問うことをしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。」(コリント第一10:25-28)
偶像にささげた物を食べるのを見て、心を痛める兄弟や、信仰の弱い人をつまづかせないために、それを食べないことは、相手の良心を守るために大切なことである、とも書かれています。
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって(自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。ヨハネ第一3:21,22)、咎めのない人(やましいと思わない人)は幸いです。
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、(その人は)罪に定められます。(それはその人自身の信仰によってなされていないからです)信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:22,23)
私は、くじ引きに、神の霊の働きを信じる者です。それゆえ、私自身の信仰によって、みことばをいただくのです。
この事を怪しむ人もいるでしょうが、私は今まで、このようにして、その時その時必要なみことばを受け取り、また、そのみことばは確かに神からのメッセージであったことを、あとで確認するという歩みをしてきました。
人それぞれの信仰があります。御霊はひとつであり、信仰もひとつです。信仰によってなされていることに、御霊はちゃんと答えをくださるのです。
正直なところ、他人の信仰はわかりません。神がその信仰を認められるならば、その信仰によって正しい道を進んで行きます。しかし、神がその信仰を認められないならば、道に迷います。
わからないことは、すぐに判定するのではなく、わからないまま頭の片隅に置いておくことも大切です。
聖書のみことばのみに権威を認める信仰の人たちは、驚き怪しむでしょう。しかし、御霊は生きて働き、生ける神のみことばをもって道を開いてくださいます。
「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」(ローマ14:10)
それぞれの信仰によって歩むことは、それぞれの感謝が神にささげられることです。
結核は、私の不信仰の罪が原因であったことを知らされました。
クリスチャンの犯す罪で、もっとも神を悲しませるのは、不信仰の罪です。神を信じないことは、信仰の扉を閉じ、神との交わりを手放すことなのです。
入院中に、私がキリスト信仰を持ったことでぎくしゃくしていた家族との関係が回復し始めました。
母から手紙が来ました。
「星空を見上げる事がありますか。いつまで見ていても飽きない星。美しい星。無数に輝く星。どんなにお金があっても買えない。お金なんかなくても貴女の上で輝く星。
この世界は美しい物がある。きれいなものがある。貴女のきれいな瞳に映して見て下さい。一生懸命にだけ星は輝く。私達が一つだけ願っている事がある。貴女が幸せになる事を。私達の大きな大きな宝、本当に私達の宝。」
そして、母が昔読んだという詩で、心に浮かんだものを添えてくれました。
「我は草なり 伸びんとす
伸びられるとき伸びんとす
伸びられぬ日は伸びぬなり 伸びられる日は伸びるなり
我は草なり 緑なり」
草は、成長しているが、それは、日々、目で見てわかるものではありません。
人もまた、成長したいと願うが、何も進んでいないという時もあります。うまくいかない時は、静かに成長する(物事が進む)日が来るのを待ちます。そして、その時が来たなら、喜びと感謝をもって立ち上がり、活力をもって進んで行きます。緑の草が生きているように、人はいのちを持っているからです。
この詩は、その時の私の心を慰め、支えました。
成長する時に成長すればいいんだ。結核で弱った私を鼓舞して、この状況を脱出するために頑張らなくていいんだ。
父が信条とする格言を書き出した、父の用紙も同封してありました。
「守る事 両親より
人の幸せは努力によって生まれ、努力によって保たれる
一. 世の中で一番楽しく立派な事は生涯を貫く仕事を持つ事です
一. 世の中で一番惨めな事は人間として教養のない事です
一. 世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
一. 世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
一. 世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩に着せない事です
一. 世の中で一番美しい事はすべてのものに愛情を持つ事です
一. 世の中で一番悲しい事は嘘をつく事です
1.感謝の生活をする人
2.収入以下で生活する人
3.夫婦仲の良い人
4.金や物を大事にする人
5.健康に心がける人
6.独立自尊心の強い人
7.仕事を趣味とする人
8.一事に貫く人
9.常に節約する人
10.儲けを当てにせぬ人
神は、入院を通して、キリスト教のしきたりや人間の教えによって、がんじがらめになっていた機械ような心の私に、人間の心を取り戻してくださいました。
四人部屋のほかの患者はみな、創価学会員でした。しかし、ともに過ごすうちに、キリスト教も創価学会も、同じ人間なんだとわかりました。
私にとって、大発見でした。クリスチャンは天国へ行く人、それ以外の人は滅ぶ人。こんな考えがいつの間にか染みついていた戒律的な私は、良き隣人ではありませんでした。愛のない、神の道に反する罪人でした。
日本の風習に敵対し、脱日本人として生き、心頑なな不人情なクリスチャンの私に、神は、肉の心を与え、人としての心情豊かないのちを芽生えさせてくださいました。