ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神道は弥勒の世に向かう神の道

 

 日本の神道の精神が、キリスト教国の国民に関心を持たれているようです。

 すべてのものと和する精神です。

 人間を自然の中の一部分として捉え、山や川、植物や生き物、気候や自然の音(水のせせらぎや鳥の声や虫の音など)、すべてがひとつのいのちで繋がっている、と考えるのです。

 

 考えるというよりも、その精神に立っているという方が正しいと思います。この日本列島という自然の恵み豊かな島々を管理して来た日本人は、自然の恵みをありがたく思い、生かされていることを感謝し、「おかげ様」の精神をもって生きて来ました。

 

 それが、本来の日本人の精神であったと思います。自分ひとりが世界に立っているわけではないのです。すべてのものと共生する世界に生きて来ました。「お互い様」の精神で許容し合い、自分が存在しているのは、生かしてくださる目に見えない存在のおかげであると知っていました。

 

 神社は、日常のあわただしさで心の置きどころを見失っている自分自身を、目に見えないけれども守ってくださっている存在(生かしてくださる方)の前に置くことで、精神を本来の場所(自分自身のうちに)に取り戻す、すなわち、心をおのれに返す場所でもあるようです。

 

 生かしてくださる方を意識するとき、自然に感謝があふれて来ます。願い事をもって神社に訪れる人もいるでしょうが、自分の奥に追いやられている穏やかな心を取り戻すために訪れて、心の安定を取り戻す人もいるでしょう。

 

 神社の氏子でなくても、日本人は神社にお参りに行きます。しかも、あちらこちらの神社でお参りします。

 キリスト教会でしたら、自分の所属する教会以外の教会を、あっちこっち回るとは信じられないことでしょう。

 

 神道は宗教ではなく、目に見えない神の前に出て感謝する場所であり、生かしてくださり、守ってくださり、助けてくださる、目に見えないありがたい御力へと、人を導く神の道なのです。

 縄張りはありません。氏子でない人も自由に出入りできます。どの人にも、どんな人にも、また、ほかの国の人にも、ほかの宗教に属する人にも、広く門戸が開けられています。

 

 日本人の精神には、この神道の精神が土台にあるのだと思います。大いなる自然の中で、すべてのものが調和する安心です。

 だから、日本人は、固執する宗教には、なじめないのでしょうね。

 神道は教義もなく、説教もありません。しかし、神社は、心が神の御前に出る場所なのです。キリスト教でいうところの、密室の祈り(人に隠れた所で祈る、心を注ぎ出す祈り)のようです。人中にありながら、心は目に見えない神を感じようとしているのです。

 

 神社では祝詞(のりと)があげられます。神への祈りのことばを、宮司が神にささげるのです。彼らは、民を代表して、神に祈りをささげる祭司のような役割です。古代ユダヤの信仰のようです。

 

 神との平和があります。

 古代ユダヤでは、祭司が、民の罪の贖いのために、生贄をささげていました。

 日本の神道では、宮司が穢れを(けがれ)をはらうための祓い(はらい)をします。

 

 神道では、人間はもともと善なるものであり、穢れを祓って、きよいものとし、もとの状態に戻すという考えがあるそうです。

 

 聖書の教えとは異なりますね。

 神道では、聖なる神が強調されます。それゆえ、神社では、手水舎(ちょうずしゃ)で両手と口をきよめてから、お参りする風習があります。

 神は聖い方であり、神社に参拝する時は、心身が清らかでなければならないと考えるからです。

 

 それで、神社の敷地内には、目に見えないものを感じるような不思議な霊的感覚、清らかな静寂があるのでしょうね。

 

 神道では、罪という概念はないのでしょうか。神との精神的交わりがあります。

 生ける神のいのちを感謝していのちと調和する、すなわち、自然や自分以外のものと和する精神を培います。

 仏教では、罪をあからさまにします。そして、罪と罰を教え、生老病死の苦しみからの解放を説きます。神道とは別の方面から、精神を高めるのです。

 

 日本の神道では、聖なる神を知らせ、日本人の霊の部分に働きかけます。

 日本の仏教では、人の罪を知らせ、魂の救いを求めさせます。日本人の魂に働きかけます。

 

 日本人の精神の根底には、神道と仏教の両方の教えがあります。

 自然と和しながら、人とも和する。霊に於いて、私たちを生かす目に見えない聖なる方(神)を知り、魂に於いて、おのれの罪を知り、救いを求める。

 

 実は、この両面を、神の御子イエス・キリストが完成してくださっているのですが、キリスト教を宗教として捉える日本人には、なかなか辿り着けません。

 

 しかし、神は、日本人の為に、キリスト・イエスによって集約される新しい世界を用意してくださっています。

 古神道で待ち望まれている「弥勒の世」です。それは、仏教の目指す、煩悩から解脱した三千世界(霊界も地上界も天上界も、すなわち、地球も宇宙も霊界に住むものもすべてが、一つとなる安息の世界)でもあります。

 

 神は、日本人が弥勒の世に入るようにと、祝福してくださいます。

 神道は、弥勒の世、すなわち、聖書に約束されている「千年王国」へ向かう神の道のようである、と思います。

 

 聖書を知らない日本人は、目に見えない聖なる方、霊なる神に畏敬の念を持つ歩みを続けるならば、すべてのものが贖われて喜びと感謝にあふれる、ひとつのいのちの世界、すなわち、平和と調和が実現する世界「弥勒の世」へと導かれるのでしょう。

 

 しかし、弥勒の世がゴールではありません。

 千年王国は、地上の国です。天の御国ではありません。

 

 しかし、千年王国に招かれることは、恵みです。

 天地万物の主権者であられる神のひとり子キリスト【救世主】が治められる地上の国です。王の王・主の主の治められる「平和の世」です。

 神道が現わした、聖なる神が治められる、回復した被造物の世界です。草木も喜ぶ嬉しうれしの「弥勒の世」です。

 仏教が現わした、罪に勝利した浄土であり「曼荼羅(まんだら)世界」です。人は、悟りの世界でともに生きるのです。

 

 日本の神道や仏教は、精神性を高めます。

 心の貧しい者(高ぶらない心)、悲しむ者(人の痛みがわかる心)、柔和な者(へりくだって和する心)、義に飢え渇く者(正義を愛する心)、憐れみ深い者(親切な優しい心)、心のきよい者(偽りのないきよい心)、平和をつくる者(赦す心)を養います。

 

 これらの高められた精神の持ち主は、神に招かれます。

 父なる神は、ひとり子の結婚の祝宴を設けられます。子羊イエス・キリストの披露宴が地上に設けられるのです。

 この披露宴が、千年王国であり、神の道を歩んだ人たちは、この祝宴に招かれます。

 

 この千年王国の世界では、すべての者がキリストを知っている、とあります。

 だれも、イエス・キリストが救い主である、と教えることはありません。千年王国に入る者はみな、イスラエルの王がイエス・キリストであり、神の御子であることを知っているのです。

 

 だれもが真理を悟るのです。

 千年王国に招かれた人たちは、真理を悟ります。

 自分たちが畏敬の念をもって崇拝して来た目に見えない霊なる方は、イエス・キリストの父であること、また、争いに満ちた邪悪な闇の世から私たちを救い、この喜びと平安に満ちた平和の光の世に招き入れてくださった救い主は、イスラエルの王であるイエス・キリストであることを悟るのです。

 

 千年王国に招かれた人たちは、感謝の心をもって都に訪れ、招いてくださった神と、イスラエルの王を礼拝します。

 彼らは、都にあるいのちの木の実を食べて、永遠のいのちを得させられるでしょう。

 

 いのちの木の実を食べる人は、永遠に生きる神の子どもとされる人たちです。

 イスラエルの王神の子羊キリストが治められる千年王国【被造物が回復した弥勒の世】は、千年間という期限があります。

 千年王国の終わりには、神の裁きがあり、いのちの木の実を食べた人と、食べなかった人とは分けられます。いのちの木の実を食べた人は永遠に生きる者とされます。

 

 神道では教えられなかった事で、仏教では教えられていた「罪の裁きの時」が訪れるのです。

 

 神は、いのちの木の実を食べた人や、御霊によって新しい創造を受けた人たちに、新しい天と新しい地とをお与えになります。

 闇にあった天体はすべて消滅しました。宇宙はもう存在しないのです。すべての現象は消え去りました。

 

 神は、永遠のいのちを得た神の子どもたちのために、霊の世界に住まいを設けられます。物質物体は、ありません。人のからだも霊のからだであり、すべては霊の世界となります。人は御使いたちのように霊の存在となるのです。霊なる神と同じです。

 

 そして、都にはいって、いのちの木の実を食べた人たちは、新しい地に住まい、永遠に神をほめたたえるのでしょう。彼らは、キリストとともに、天の御国を相続するのです。