ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

バチが当たる

 

 日本の神は、祟り神(たたりがみ)です。

 日本の神は、自然界を治め、すべてのものを生かす霊なる神です。いのちを支配する神です。

 

 日本人は、神を恐れました。

 目に見えない霊なる神は、確かに存在するのです。豊かさを与える恵みの神でもあり、自然が猛威を振るって御力を現わされる神でもあります。

 

 日本人は、目に見えない方だからこそ、神の御力を恐れ、いつも、自分を律してきました。

 「お天道様は見ているよ。」

 

 他人の目に隠れていることでも、霊なる神には見られているのです。そして、この神の祟りは恐ろしいものなのです。神は、悪鬼となって襲ってきます。命を取ることだってされます。

 

 「罰が当たる。(バチが当たる)」とは、おじいさん、おばあさんが、よく口にしていた言葉です。

 昔の日本人は、バチを当てる神の存在を信じて、恐れていました。

 

 神は恐ろしいものだったのです。自然の恵みを感謝する日本人の心の根底には、神を恐れる心もありました。

 祟り神として現われる神の別の姿も知っていたのです。

 

 私が幼児だったとき、わがままで言う事を聞かない私は、「神様が見ているよ。」と言う母の言葉に、震え上がったものです。

 からだの奥底から湧き上がる震えと、からだが固まってしまうような恐怖でした。そして、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と心の中で、目に見えない神に謝る自分がいました。

 

 日本では、人の怨霊というものが信じられていました。恨みを買うと、その人の呪いが地上に留まり、その人が死んでもなお、呪い続けるというものです。

 その怨霊の破壊的な力を日本人は体験していたのです。そして、その怨霊の祟りから逃れるために、祟る霊を神として祀りました。

 菅原道真公や、平将門など、多くのみたまが、神として、神社に祀られました。神として祀られたみたまは、祟る霊ではなくなり、守護霊となるのです。

 

 なんと、敵を赦し、敵を守る守り神となってくれるというのです。日本人の独特の発想のようです。

 生きている人を祟っていた怨霊は、生きている人々を守る良き神となるのです。

 日本では、神として崇められた怨霊は、祟るほどの恨みや憎しみから解放されて、生きている人を守る平和な神となっていました。

 無念を抱えて燃える火のように激しい怨霊は、神として崇められると、権力者として君臨し、自分の思うように支配する独裁者となって恨みを果たすのではなく、赦しを与え、和解し、恵みを返す平和な良き神となるのです。

 

 日本人の魂を持つ菅原道真の成せるわざですね。日本人のDNAは、思い直す広い心を賜っているようです。善い事をされたら、良き事を返す。呪いによって身を焦がすのは、愚かなことです。

 

 日本人のDNAには、霊的存在の恐ろしさが刻まれていることでしょう。だから、目に見えない存在なのに、見えるものを見ているかのように、霊なる神を恐れます。

 

 日本列島では、目に見えない神々(生ける神が司らせている御使いだと思います)がそれぞれの領域を守っています。

 神社の鳥居は、俗なる世間と、聖なる神の領域とを隔てるものだそうです。それゆえ、鳥居をくぐると、何か別次元にはいったような感覚を覚える人も多くいます。

 

 日本人には、ユダヤ教のような神の律法はありませんが、霊なる神を意識することが、日本人の律法のようです。

 

 ですから、神の領域にはいる特別なマナーがあります。日本人の心の根底には、神を恐れる感覚が置かれていますから、あえてマナーを犯すような失態を避けます。

 なんといっても、日本の神は祟り神なのですから。この祟り神にたたられると、どうしようもありません。日本人のDNAは、神が祟る方であることを知っているのでしょう。

 

 このような日本の神とともに生きて来た日本人は、ルールを守らないことには厳しい心を持っています。暗黙のルールは、見えない神を意識する感性によって生まれているのでしょう。秩序を乱さないことが求められ、日本人の間には、互いの領域を犯さないために超えてはならない、目に見えない境界線があるようです。

 

 無宗教と言われる日本人ですが、神社に訪れるときには、神妙な心になります。俗なる世間とは異なる「神の領域」に訪れるという姿勢を持っています。

 

 「郷に入りては郷に従え」の精神です。

 風習や習慣は、その土地土地、村々によって異なります。その村にはその村のしきたりがあります。その村のしきたりに従って生活するのが平和の道なのです。

 ですから、村に入ったなら、その村のしきたりに従うのが良いという教えです。

 

 神の領域に入ったならば、その神社の風習に従うのが良いのです。

 ある時、神社の長い参道で、東洋系の若い母親と幼い子供がかけっこしているのを見ました。子供を退屈させないための、母親の知恵であったのかも知れませんが、ギョッとしました。

 日本人は、子供の頃から神聖な場所として教えられています。町の氏神が祀られた氏神社の境内が、その土地に住む子供の遊び場であることはありますが、参拝を目的とした神社の参道や境内に、俗なる心持ちや軽々しい姿勢で入る人を見るのは珍しいことなので、びっくりします。

 

 昔の日本人だったら、「なんとバチ当たりなこと。」と思うことでしょう。

 日本人の心の中では、自然に、あるいは意識的に、俗世間と神の領域の区別をつけているのです。

 

 富士山が世界遺産になったことで、登山する外国人も多いですが、富士山は、古来から日本人の祈りの対象であり、敬われてきた霊山です。

 

 日本の霊山や神社は、古くから神々が崇拝されてきた場所です。神を恐れる日本の文化には、神々の息がかかっているようです。

 日本人が気づかなくても、目に見えない存在は、すべてを察知しておられます。

 

 「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロ第一1:16)

 聖書の神は、聖なる神を汚すことに怒りを発し、イスラエルの民を打たれました。

 

 日本の神も、聖なる神であり、神の逆鱗に触れた者は、呪いを受けます。これは、古くから日本人が経験して来たことです。日本人は、「神の祟り」と表現します。

 神の祟りは恐ろしいものです。目に見えない方ですから、人には対処できません。また、霊なる神は時間や空間に縛られない方なので、地の果てまでも追ってゆき、狼狽させられます。

 

 日本人は、神を霊なる方として理解しています。それゆえ、神への畏敬の念を持たない人たちの言動に出会うと、心の中で思うのです。

 「日本の神を侮らない方がいいよ。神が祟ることを知らないの。神は、平和で心の広い方だけど、聖なる神を汚す者を見過ごされないよ。」

 

 たとい日本人が彼らを見過ごしても、日本の神は神御自身、御自ら彼らにバチを当てることを、日本人は知っているのです。

 

 日本人が神を恐れる意味がわかることでしょう。

 それゆえ、かつて、日本人は年寄りになるほど、目に見えない神に恭しく、また、仰々しく、心をこめて拝んだものです。