「神は『新しい』と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。」(へブル8:13)
「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。」(へブル8:7)
初めの契約とは、神がモーセに与えた律法であり、ユダヤ人たちが守っている旧約聖書のことです。
ユダヤ人の聖書では、肉の割礼が命じられています。割礼は、神と契約を結んだアブラハムの子孫のあかしです。
神は、アブラハムに、カナンの地を相続地として与えることと、世界の祝福の基となることと、世界を救う救世主、国々を治める王の王、主の主が、アブラハムの子孫から起こることとを約束されました。
また、神は、アブラハムの子孫ユダヤ民族と契約を結ばれました。イスラエルは、神の祭司の民として召されたからです。
神は、イスラエルに神の律法を与え、律法を守るように命じられたのです。
イスラエルは、神に何と言ったでしょうか。
「民はみな口をそろえて答えた。
『私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。』」(出エジプト19:8)
しかし、民は神がお立てになったモーセに逆らい、不信仰の罪、不従順の罪により多くの者が荒野で死に絶えて、カナンの地にはいることができませんでした。
イスラエルは神に逆らったのです。民に律法を与えたモーセでさえ、神を聖としなかった罪で罰せられて、カナンの地にはいることができませんでした。
しかし、神は、神に従順なふたりの者を残しておられました。ユダ族のケナズ人エフネの子カレブと、エフライム族(ヨセフ族)のヌンの子ヨシュアです。
モーセの従者であったヨシュアが、民を導いてカナンの地に向かいました。
その時、ヨシュアは民に言いました。
「私(ヨシュア)と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)
すると民は言いました。
「私たちが(奴隷の家エジプトから救い出してくださった)主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」(ヨシュア24:16,18)
ヨシュアは民に言いました。
「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、妬む神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。」(ヨシュア24:19)
民はヨシュアに言いました。
「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」(ヨシュア24:24)
イスラエルは主に誓って、カナンの地にはいり、神の祭司の国民の国であるイスラエルを建国したのでした。
ところが、民は神に逆らい続けました。王は自分勝手に国を治め、預言者たちを迫害し、祭司も自分の務めを果たさず、預言者は王の喜ぶことばを語って神のことばを捻じ曲げました。
神とイスラエルの間で交わされた契約は、双方が守って成立するものです。しかし、民は契約を破りました。
イスラエルが守らない契約は、神にとって欠けのあるものです。
契約そのものに欠けがあるのではなくて、イスラエルが守らないことで、契約の効力を失ったのです。
神のひとり子がイスラエルに遣わされたとき、すでに、イスラエルは、律法を守れない民だったのです。
「イエスが、過越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、(イエスは神が遣わされたキリストであると信じ、キリストの)御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられ、また人の心の中にある事を知っておられたので、人についてだれの証言も、必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:23-25)
神は、人の弱さを知っておられました。神の目には、祭司もパリサイ人も指導者も遊女も取税人も、同じ罪人なのです。
遊女や取税人は、自分の罪を知る者でした。彼らは、自分が律法を守れない罪人であることを知る者でした。しかし、祭司やパリサイ人たちは、律法を守っている自分を義とし、自分には罪がないと思っていました。
モーセの律法は、一つでも違反するならば、違反者となります。すべての律法を守ることは、人にはできないことを神は御存じでした。神の契約は、イスラエルの違反により、すでに無効の状態となっていました。効力を失っていたのです。
イスラエルには、残された一つの命令がありました。この一つの律法を守ることができるならば、すべての律法を守る完全な人として、神に義とされるのです。
それは、モーセの重要な命令です。
「神が遣わされる(モーセのような)もうひとりの預言者に聞き従わなければならない。彼(キリスト)に聞き従わない者は、民の中から滅ぼし絶やされる。」
この一つの命令を守る者は、そのほかの律法の違反者であっても、神に罪が赦されて義とされます。
しかし、ほかのすべての律法に厳格であっても、この重要な一つの律法に違反する者は、神に罪ある者として、義と認められずにイスラエルの契約から締め出されるのです。彼らは、契約を持たない者と同じにされてしまうのです。
モーセの言った、もうひとりの預言者キリストが、イスラエルに遣わされました。
自分の罪を知る取税人や遊女は、キリストを信じ、神の御子イエスに聞き従いました。そして、神に義とされたのです。
自分の罪を悟らない祭司や指導者たちは、イエスを迫害し、神に退けられました。彼らは、神が遣わされた約束の預言者キリストに聞き従わなかったからです。
「もし初めの契約(旧約聖書)に欠けたところがなかったなら、あとのもの(新約聖書)が立てられる余地はなかったであろう。
ところが、神は彼ら(イスラエル)を責めて言われた。
『主は言われる、見よ。わたし(イスラエルの神)がイスラエルの家(北イスラエル〈十部族〉)及びユダの家(南ユダ〈二部族〉)と、新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたし(全能の神)が彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼ら(イスラエル)と結んだ契約(文字の律法)のようなものではない。
彼ら(イスラエル)がわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らを顧みなかったからであると、主が言われる。
わたしが、それらの日の後(呪いの誓いを果たしたのち、祝福の誓いを果たすときに)、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法(神のひとり子キリストの御霊)を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。(イスラエルは、神の御子イエス・キリストの御霊を受けて、心に割礼を受け、キリストに似た神の子どもに、新しく造り変えられる)
こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。(彼らは永遠のいのちを得させられ、天の御国の国民となる)
彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼ら(イスラエル)はことごとく、わたし(生けるまことの神)を知るようになるからである。
わたしは、彼らの不義(キリストを信じず神の愛を知らずに、望みなく滅びに向かう不従順の罪)を憐れみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない。(こうして、新しい契約の中にはいるユダヤ人はみな救われ、信仰によってイスラエルに加えられた異邦人も救われる)』」(へブル8:7-12)
初めの契約には、レビ族の祭司がいました。
しかし、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでも留まることができず、大勢の者が祭司となりました。
大祭司は、自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日生贄をささげました。
しかし、次に立てられた大祭司は、ご自分を生贄としてささげ、ただ一度で贖いを成し遂げられたのです。新しい契約の大祭司は、神の御子キリストです。
「主は誓ってこう言われ、御心を変えられることはない。
『あなた(御子キリスト)はとこしえに祭司である。』」(へブル7:21)
死のあるレビ族の大祭司と異なり、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
「したがって、(新しい契約の大祭司)キリストは、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼ら(イエス・キリストの御名によって神に近づく人々)のために、とりなしをしておられるからです。」(へブル7:25)
キリストの血は、ただ一度で、世の罪を取り除きました。
キリストは、神と人との仲介者として、天のまことの聖所で仕える大祭司です。
新しい契約は、キリストの血によって贖われ、神の子羊イエス・キリストの執り成しによって神に近づき、イエス・キリストの御名によって心に割礼(真理の御霊)を受け、永遠のいのちを得させられて、キリストに似た神の子どもに造り変えられるのです。
初めの律法では、いのちを得ることができませんでした。
その証拠に、律法の下にいた人々の多くは、永遠のいのちを得させる神の子羊イエスを信じることができず、キリストを拒んだのです。
それゆえ、イスラエルを救うために、神は、新しい契約を必要とされました。神の御子キリストによる契約です。そして、新しい契約には、新しい律法が用意されます。
新しい契約は、神が遣わされた神の御子イエス・キリストに聞き従うことです。
新しい律法は、キリストが授けられる真理の御霊を心に宿し、心に割礼を受けることです。