ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒十四章 ゼウスとヘルメス

 

 使徒の働きの書簡では、聖霊のバプテスマを受けた使徒たちの、復活したキリストを宣べ伝える福音宣教の働きが記録されています。

 

 真理の御霊が授けられたイエスの弟子たちは、御霊の力により、大胆に、復活したキリストの福音を語りました。

 弟子たちに聖霊のバプテスマを授けて真理の御霊をお与えになった主キリストは、彼ら(イエスの弟子たち)の手に神のしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされました。すなわち、主は宣教する彼らとともにおられて、御霊の力を彼らの働きの上に現わされたのです。

 

 イエスは、病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を甦らせて、ご自身が全能の神に遣わされたキリストであることを明かされました。

 ユダヤ人たちは、ナザレのイエスが行なう神のみわざを見て、イエスを信じました。神から来られた方でなければ、このようなしるしや奇跡は起こらないと考えたからです。

 

 イエスが、死から甦り復活のからだで天に上り、ご自分を遣わされた父なる神のみもとに帰った後には、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストが、弟子のひとり一人にお授けになった真理の御霊が、弟子たちとともにおられます。

 

 贖いの十字架のみわざを成し遂げて、死から甦り復活して新しい人となられたイエスは、御座におられる父なる神から、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けられました。

 そして、父なる神は、キリストのバプテスマである聖霊のバプテスマを受けたイエスの弟子たちに、もう一人の助け主を遣わされます。

 

 イエスが弟子たちに話しておられたことが実現するのです。

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、(わたし〈イエス〉が父のみもとに帰った後には)父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 その方は、真理の御霊です。世(神の御子イエスを信じない世の人々)はその方(真理の御霊)を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。(神を信じない者は、神に遣わされた真理の御霊のなさる神の栄光のみわざを見ることができず、真理を知ることはできない)しかし、(イエスを信じて聞き従う)あなたがたはその方(真理の御霊)を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(キリストの授ける聖霊のバプテスマを受ける者は、キリストの御霊である真理の御霊を宿す者とされるのです)」(ヨハネ14:16ー17)

 

 イエスの名前の意味は、「神は救い」です。

 神の御子イエスは、預言者イザヤに預言された「インマヌエル(神は私たちとともにいる」と名づけられたキリストです。

 

 「主みずから、あなたがた(主が契約を結ばれたユダヤ民族)に一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。」(イザヤ7:14)

 

 神が、聖霊によってみごもらせた処女マリアから、人の子となられた神のひとり子「イエス」は、生まれました。「インマヌエル」(神は私たち〈イスラエル〉とともにおられる)と呼ばれる方です。

 

 神のひとり子イエス・キリストは、イスラエルとともにおられる方です。

 しかし、イエス・キリストを信じるユダヤ人と、信じないユダヤ人とに分かれました。

 

 神は、神のひとり子イエス・キリストとともにいる人たちに、もうひとりの助け主【真理の御霊】を遣わされました。

 真理の御霊を授けられた人のうちに、「インマヌエル」と呼ばれるキリストの御霊が宿られます。すなわち、彼らは、「神は私たちとともにおられる」と告白する「新しい人」とされるのです。

 

 さて、真理の御霊を受けた使徒たちは、復活された神の御子イエス・キリストの福音(天の父なる神と罪の赦しと永遠のいのちと天の御国の福音)を携えて宣教活動をしていました。

 

 パウロとバルナバのふたりは、ルステラにはいりました。

 足がきかなくてすわっている人がパウロの話すことに耳を傾けていました。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことのない人です。

 パウロは、彼に目を留め、彼に癒される信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言うと、彼は飛び上がって、歩き出しました。

 

 「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。』と言った。

 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。」(使徒14:11,12)

 

 ルステラの人々は、神を信じる人々でした。パウロのしたことを見て、すぐに神のみわざである、と悟りました。

 すると、彼らはふたりを自分たちの神々の名で呼び、バルナバをゼウス、話をするパウロをヘルメスと呼んで、ふたりを神として崇めようとしました。

 

 彼らは、パウロとバルナバが神に遣わされた者であることを悟りましたが、本当の神を知りませんでした。本当の神とは、生けるまことの神のことです。天地万物を創造し、すべてのものを生かしておられるいのちの根源であり、保っておられる全能の神です。

 

 パウロとバルナバは群衆の中に駆け込み、彼らの行ないをやめさせました。

 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。

 そして、あなたがたがこのようなむなしいこと(偶像礼拝)を捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、(永遠のいのちを得させる真理の)福音を宣べ伝えている者たちです。

 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ(生けるまことの神から離れて)自分の道を歩むことを許しておられました。

 とはいえ、(生けるまことの神は)御自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。(太陽を照らし、また雨を降らせて植物を養ってくださるのは、生ける神のみわざです。神を信じる者にも信じない者にも、また神を知らない人たちにも、神は等しく御恵みをもって養っておられるのです)」(使徒14:15-17)

 

 終わりの時に、聖霊の御力をもって生けるまことの神をあかしするふたりの証人が立ちます。

 彼らが預言をしている三年半の期間は雨が降らないように天を閉じる力をもっており、彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす力を持っています。(彼らの口から出る火とは、彼らの口から言葉が発せられると、その通りのことが起こる、ということでしょうか。たとえば、列王記第二1:9-12にあるように、「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたを焼き尽くすであろう。」とふたりの証人が言うならば、天から神の火が下って来て、その人は焼き尽くされるのかも知れません)彼らは、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力が与えられています。

 

 仏法の道を生きていると思われる「イスラエルのメシア」と、古神道の道を守る「アロンのメシア」の、日本から起こるふたりが立つ時も、使徒十四章の記事のような事が起こるのかも知れません。

 

 日本人は生ける神を知っていますから、おそらく、多くの人たちがふたりの話に耳を傾けるでしょう。ふたりの話に感動した人たちの中には、ふたりを教祖のように敬うのかも知れません。

 しかし、二人は、それを止めるでしょう。

 

 彼らは、自分たちを遣わされた神を知っており、生けるまことの神の御霊によって、仏法の教えの真理と古神道の教えの真理が、神の子羊イエス・キリストによって、一つの真理となるのです。

 ふたりは、真理の御霊によって、永遠のいのちを得させる子羊と、子羊の父、すなわち、天地万物を創造された生けるまことの神をあかしするのです。

 

 イエス・キリストがそうであったように、ふたりは、自分たちの栄光を求めません。自分たちを遣わしてくださった神の栄光のために、神のみわざをするのです。生ける神を宣べ伝え、人々にいのちの神と永遠のいのちを得させる子羊の名を証言する証人なのです。

 

 仏法の「イスラエルのメシア」と、古神道の「アロンのメシア」は一致しています。この一致の先には、神との和解と、赦しと平和と喜びと愛と調和と平安があるのです。大和民族の魂は甦り、日本人の和合の喜びが回復するのでしょう。

 

 しかし、信じる人たちだけではありません。

 人々は二派にわかれます。ある者は所属する自分の宗教につき、ある者はふたりの側につくことでしょう。

 仏教の中にも、神道の中にも、キリスト教の中にも、ふたりにつく人たちと、ふたりをはずかしめる者とにわかれるでしょう。

 

 宗教のしきたりや伝統を重んじるような、形式にとらわれる信仰の人たちには、ふたりの証人の一致した教えを受け入れることができません。

 神道は、仏教は人間の教えであって、神の教えではないと思うかも知れません。

 仏教は、神という存在を認めることができないかも知れません。

 キリスト教は、聖書を知らないふたりのことばを、信じることができるでしょうか。

 

 しかし、神を霊とまことで求める人、真理に飢え渇いている人、目に見えない存在に思いを向ける人、いのちを愛し、慈しみ、憐れむ純真な心の人は、ふたりの証人のことばを信じて、真理の御霊を受ける事でしょう。