人は老いて死んでゆく。
人間は生きることに苦しむこともあり、病に伏すこともあり、悩みながら成長する。
人間、生きていれば、いろいろあるさ。
人は哲学の中に真実を探ろうとし、宗教に救いを求めます。しかし、確かな答えは得られません。もし、得られているならば、人類に疑問は残らなかったはずです。
人類の歴史は、過去の事柄を繰り返す堂々巡りから脱出していたはずです。
しかし、何故、人はどの世代の人も同じように悩み、どの時代もうめいているのでしょう。原因があるはずです。
聖書に、人の成り立ちが書かれています。
「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)
学識のある人は、そんな話は、たわごとであると考えます。神話は、人間が作りだした物語なのです。それを、現実のものとして考えることは、的外れだと思うのです。
そして、そんな寝ぼけたことを本気で信じる人間を、無学の産物だと思うのかも知れません。
そして、愚かな盲信者たちをあざけり、笑います。
さて、真実はどこにあるのでしょうか。
彼らは、神の存在を認めません。神の存在を信じません。
初めの人アダムとエバは、エデンの園で、神と会話し神の栄光を見ていました。もし、アダムが、現在の無神論者の意見を聞くならば、本当に人の霊は死んでしまったのだ、と思うことでしょう。
しかし、無神論者たちは、アダムもエバも空想の産物であり、自分たちの成り立ちはアメーバーか何かの有機体だと思うのでしょうか。
それでは、その有機物はどのようにして存在し始めたのでしょうか。謎は謎を生み、抜け道の無い迷路に、人を置き去りにします。
聖書を知らない人でも、アダムが食べた禁断の実が、人類に死をもたらした、というお話を知っています。
しかし、そこに、生老病死の原因があるという事に、思いが至りません。信仰が無いからです。
同じものを見ても、同じ状況を体験しても、信仰のある人と、信仰のない人では、全く異なる答えを導き出します。
「天の御座に着いておられる方(天地万物を造られたいのちの根源である全能の主)は笑う。
主はその者(神を信じずあざける者)どもをあざけられる。」(詩篇2:4)
アダムは、エデンの園にいたとき、真理の光の中におり、平安と喜びがありました。何も心配することはなかったのです。すべての被造物は、ひとつのいのちで繋がっていました。
危険に遭遇することはありません。ひとつの愛に満たされ、愛と喜びと調和と平安がありました。すべてのものは、神のいのちとひとつであり、光り輝いていました。
地球は漆黒の闇の宇宙の中にあります。すなわち、闇の王者である悪魔が権力を振るっている闇の中にあるのです。
神のことばの中におり、神のことば(神のひとり子)とひとつであったアダムは安全でした。しかし、神の命令にそむき、神のことばから外れると、神の覆いを失いました。
神のことばから外れた人は、天から落ちたものたちと同じ闇に入りました。神のバリケードを失った人は、悪霊ども、闇の勢力に翻弄されます。
エデンの園での誘惑は、言葉の誘惑でした。攻撃的なものではありません。アダムの魂に働きかけています。決して暴力的な方法ではありませんでした。神の覆いの中にいるアダムに、悪魔の闇は触れることができないのです。
神のことばに留まるならば、神の覆いの中に留まります。
しかし、神のことばから外れたアダムは、神の覆いから抜け出してしまったのです。
神のことばの覆いの中には、真理があります。神のいのちの輝きに照らされており、神のことば、神との交わり、神の養い、神の平安があるのです。
神のことばから外れた人類は、闇の中に輝く光が、希望の光だと思います。しかし、魂は知っています。まことの光は、闇に覆われた地上にはないことを。まことの希望の光は、全き光である天にあるのです。
頭でっかちになった人間には捉えることができません。しかし、感性で捉える野性的な感覚の被造物は、目に見える現象が真実なものではないことを捉えています。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」【ローマ8:19)
人間だけではありません。草木や生き物、すべての被造物もまた、生老病死のない健やかな本来の姿に戻ることを待ち望んでいます。
神から被造物の管理を任された人間は高ぶり、自然に対して横暴な支配者となっています。自然は人間の手によって破壊されているのです。
被造物は、人のそむきの罪が、根源悪であることを知っています。被造物は滅びの束縛から解放されて、本来の健やかな姿に戻ることを願っています。被造物は、本来の状態に戻るためには、罪人の贖いが必要な事を知っています。罪人が神のことばに服する人に回復しなければ、被造物全体の回復はないのです。
被造物は、切実な思いで神の子ども(神のことばとひとつとなる新しい人)たちの現われを待ち望んでいるのです。
まことの光は天にありました。希望の光は、天にあったのです。
天から、神のひとり子イエスが地上に遣わされました。真理の光みずからが、人の子の姿となって来られたのです。
かつて、アダムとひとつであった神のことばです。神のことばが、人となられて、罪人の救いの為に来られました。人のそむきの罪を贖うために、神の子羊として神に遣わされたのです。
天から来られたキリストです。天から来て、罪人の罪を贖い、死人(罪人)の魂を甦らせて、永遠のいのちを得させ、御霊によって新しく創造した新しい人を天に導き入れてくださる「救世主」です。
救世主イエス・キリストは、罪人の罪をご自分の血で贖われました。神は、罪人の罪を子羊イエスの血によって贖い、罪を赦され、義とされました。
救世主キリストは、死から甦り、復活のからだを着て、天に帰られました。肉のからだのナザレのイエスは、死から甦って、復活のキリスト・イエスとなられたのです。
神は、「人の子」を聖霊の力によって死から甦らせて、新しいからだ(復活のからだ)を与えて、「新しい人」を創造されました。キリストは、新しい人(神の子ども)の初穂です。
死から甦ったイエスは、永遠に生きるメシアとなられました。聖霊のバプテスマを授けるキリストです。
人は、神のことばから外れて、禁断の実を食べて「死ぬ者」となりました。
神は、神のことばから外れた罪人を、人の子となられた神の御子イエス・キリストとひとつとすることで、神のことばとひとつとなる「新しい人」を創造し、被造物を回復してくださいます。
それは、肉の人の回復ではありません。御霊によって生まれる「新しい人」に造り変えてくださるのです。
新しい人は、キリストの血によって罪が贖われ、神に義とされた人であり、キリストの授ける「生かす御霊」により信仰によって新しく生まれ、真理の御霊に導かれて「神の子ども」に造り変えられた人たちです。
被造物がうめきながら、切実な思いで待ち望んでいた神の子どもたちです。
新しく創造される神の子どもは、永遠のいのちを得て、天の御国にはいる「光の子」です。
神が神のひとり子キリストと御霊によって創造された新しい人によって、闇の世に、光が放たれます。彼らは、真理の御霊を宿す光の子だからです。
真理の光は放たれ、啓示の光が異邦人を包みます。すると、魂は目覚め、神のことばに耳を傾けて神のことばに帰り、神のことばとひとつとなって、魂に平安を得るのです。
真理の御霊にとらえられた魂は、本来の姿を取り戻します。生老病死の悩み、滅びの束縛から解放されて神のことばの中に留まる魂は、御霊の栄光の自由の中に入るでしょう。
「被造物も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたち(光の子)の栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:21)