近年、多様性が重視されています。
単一民族とされてきた日本人の国、日本列島に、近年、多くの外国人がやって来ます。
単一民族と言うものの、在日の人々も存在しています。明治以前は、定住する外国人はそれほど多くなかったのではないのかと思います。その当時の外国人は少数なので、日本人に嫌われないように、日本の文化を重んじ、和することを学びながら、敬意を払って暮らすうちに、まるで、日本人のひとりのように同化して、違和感のない存在として根づき、日本人も、外人でありながら、外国人とは思わない、日本人の一員、仲間として受け入れたのだと思います。
かと言って、彼らは自分の民族や国を捨てたわけではありません。日本人は、彼らから新しい事を学んできたのです。
彼らが、日本の文化に敬意を払い、日本人に心を寄せてくれたので、日本人も彼らを仲間だと思ったのでしょう。
しかし、日本人の文化に無関心で敬意を払わず、祖国の文化のまま生活する民族の人々は孤立しました。
日本には、「郷に入りて郷に従う」と言う思想があります。入った村のしきたりや習慣に合わせて暮らすことで、和を乱さず、平和を保つという考え方です。
日本人は、自分の出身の村の習慣やしきたりに固執したままで新しい村で生きるのは、みずから孤立を招くことであることがわかっているからです。
文明が進んでいなかった頃の日本では、互いに助け合って生きていました。家族が三世代で住んでいるような時代のことです。
集団生活が基本でした。「個」の意識は外来のものでしょう。みなが集合して一つだったのです。みなが一つになるためには、秩序が必要です。そして、一つの価値観があったのです。家族という意識、同じ村の村人と言う意識。
村には必ず神社があり、みんなで守っていました。村の物、みんなの物だったのです。みんなの物だから、自己を強調せずに互いに折り合いをつけて、互いに迷惑をかけないことを心掛けながら、大切にしました。
それが、古来日本人の集落のあり方であり、日本人の生き方でした。「みんな」という考えが、日本人の意識の根底にあったのです。
ところが、日本人と考え方が違う民族が家族単位で移住して来るようになると、古来の日本人のあり方と異なる彼らは、孤立します。
外国人は、少人数で入って来たときは、自分の身を日本に置くために、日本人との摩擦がないように努力して、日本人の大切にする「和」を、身をもって学び、日本人の文化を尊重してくれました。それで、日本人も彼らを受け入れ、自分たちとは違う者だとわかりながらも共生しようとしました。
しかし、自分たちの文化のままで自分たちの国の生き方によって生活し、日本人の文化を尊ばない外国人に対しては、日本人はよそ者と認識します。彼らにとって、日本人は不親切な隣人となるのです。
なぜ、日本に来ているのに、日本の国のしきたりや習慣に従わないのかと思うのです。「郷に入りては郷に従え」を教訓とし、和を乱さない生き方を大切にしてきた日本人にとっては、理解しがたいことなのです。
ほかの民族の彼らは、よその国の日本で自分自身を主張して、日本国の秩序を乱していることに気づかず、日本人のあり方を変えることを望んでいたのかも知れません。
日本人たちの心にある、守るべきルールに、壁を感じていることでしょう。。おそらく、日本人を知ろうとしないので、そういうルールがあることに気づいていないのでしょう。そして、一方的に、被害者意識をもって日本人を責めることでしょう。
ですから、長いあいだ、民族間の溝は埋められないできました。長い間と言っても、日本の歴史からすれば、百年足らずの短い間の事なのかも知れません。
単一民族として、文化を育み受け継いで来た日本人もまた、多様性という意識を持っていなかったのです。
しかし、世界的に多様性がテーマになっている近年、彼らが日本に居続けているのは、このためであったのか、と思います。
日本人だけに通じる思想や価値観では、世界に出たときに通用しないのです。グローバル化の進んだ社会に仲間入りするために、日本人のコミュニティに外の風を入れるための穴を開けてくれたのかも知れません。
世界に出れば、国によって民族によって価値観も風習も習慣も違います。その事を学ぶ時、在日との違和感の原因が理解できるのです。
現在では、様々な国から多くの外国人がやって来ています。それぞれ民族によって、また国によって、違うことを知りました。すべての国が、日本と同じ価値観を持っているわけではないのです。日本の常識が世界に通用しないことがだんだんわかってきました。
しかし、生ける神は、世界の価値基準を日本の価値基準に高めようとしておられるようです。
日本人のようになる、という意味ではなく、互いを尊重して親切な心で「和」を尊び、自然を愛する精神的な豊かさへと成長して、平和を愛する静かな平安と喜びを得、良き未来に向けて心を一つにし、心の安息を目指す社会のあり方を、世界に広げて行かれるように思います。
終わりの時代のために、日本列島は日本人を単一民族として守って来たのでしょう。日本人は自由奔放に生きてはならないのです。目に見えない神を恐れ、この神の存在を意識することによって生きる神の民として育てておられたようです。
日本人の精神性を育てられたのは、神御自身なのです。
神は、終りの時に、世界を救う者たちを日本人から起こすことを定めておられたからです。
アニメによって、日本の文化は世界に広がり、また、日本語が話せる外国人も増えました。
神は、日本人から、世界を救う人を起こされるようです。そのためにも、神は、外国人たちに、日本語と日本人を受け入れる素地をつくっておられるのでしょう。
神は、心穏やかで、精神的な学びに興味を持つ外国人たちが、自然界に神が満ち満ちている日本列島に来て、日本食を食べ、日本語を聞き、自然との会話に目覚めるようにと、彼らが容易に日本に旅ができるように、円安へと導かれたのかも知れません。
これは、誰のためでもありません。神を求める人、精神的な豊かさを求める人、御救いを求める人、魂を目覚めさせたい人、魂に安らぎを得たい人たちのためです。神は、終りの時代に、魂の癒しの場所、目覚めの場所として、日本列島の戸を開いておられるようです。
天に設けられる新しい地に住む人たちは、目覚めなければ、真理を悟ることができません。神は、目覚めの地として、日本列島を霊的に高めておられるのではないでしょうか。
そして、天に設けられる新しい天に住む人たちは、神の国の働きのために備えられています。
今、日本列島は、神の霊を受けて、日本人たちの目覚めも起こっているようです。経済的豊かさでは満たされなかった魂の正直な声に素直に耳を傾けて、本当の豊かさ、魂の喜びと安息を求め始めているようです。
日本列島は、生きもののようにいのちを放っています。
新しい地に住む人たちは、人種が違っても互いに認め合い、自分自身の魂の求めに正直になって、いのちの喜びと愛を基調として、人種を越えて寄り添おうとするでしょう。それは、一つのもののようになることではなく、それぞれがそれぞれの特質を生かして与え合うとき、それぞれの欠けが満たされ、また、互いを生かし合うことになるのです。
神は、民族というものを大切に考えておられるように思います。
神は、ユダヤ民族の神であり、すべてのユダヤ人を救うことを定めておられます。その場合、世界中に離散しているユダヤ人のすべてをさすのです。
ロシアにいるユダヤ人、アメリカにいるユダヤ人、というように、彼らをロシア人、アメリカ人として見ておられません。
国が違っても、国語が違っても、血肉によってヤコブの子孫をユダヤ人とされるのです。
それならば、アメリカに住んでいても、外国の地で生まれても、遺伝子が日本人ならば、日本人として、神はご覧になるのではないでしょうか。
神は、民族の一員として、人々を捉えておられるように思います。
血肉によって民族を分けておられるようです。血によって、それぞれの民族に数えられ、評価しておられるように思います。それぞれの役割があるのだと思います。
神は、多様な人々(外国人)が往来する環境の日本列島の中で、日本人の遺伝子を目覚めさせ日本人であることを自覚させておられるようです。
そして、神の子どもとなる日本人たちに「和」の心を取り戻させて、互いに愛を与え合うことで「新しい地に住む新しい人(神の子ども)」に育てておられることでしょう。
また、神は、御霊によって導かれる人たちを、御霊による多様性を学んで、人種を越えて一つの御霊によって神の御思いに生きる「新しい天に住む新しい人(神の子ども)」に育てておられることでしょう。