神は、ユダヤ民族と御救いの契約を結ばれました。
それゆえ、御救いはユダヤ人から現われます。
ユダヤ人たちは、ユダヤ人からキリストが現われることを知って、キリストを待ち望みました。
しかし、自分たちの都合の良い事を預言する預言者たちを慕うユダヤ人たちは、厳しい神の警告を預言する預言者たちを殺しました。神の預言者たちを殺し、神のことばを侮った者たちの子孫であるユダヤ人の霊の目は塞がれ、神が遣わされたキリスト(ナザレのイエス)を知ることができませんでした。
彼らは、彼らの先祖が神の遣わされた預言者たちを殺したように、神の遣わされたキリストを殺しました。救いはユダヤ人から出ることを自負するユダヤ人たちはみずから、イスラエルの神が遣わされた神の子羊ナザレのイエスを否んだのです。
イエスは、サマリヤ人の女に言われました。
「わたし(ナザレのイエス)の言うことを信じなさい。(ユダヤ人に数えられない)あなたがたが父(イエスの父、すなわち、全能の神)を礼拝するのは、この山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたち(ユダヤ人)は(神の約束を)知って(神の都エルサレムで神を)礼拝していますが、あなたがたは(ユダヤ人から救いが出ることを)知らないで(モーセの祝福の山ゲリジム山)で礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父(創造主であられるすべての「魂の父」)を礼拝する時が来ます。(神のひとり子が人の子となって世に来られた)今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。(今はキリストがイスラエルに現われてユダヤ人たちの間にいます。神が遣わされた「救いの君」キリストを信じる者は、キリストを遣わされた父をも信じる者です。神の子羊イエスを信じる者は、父のことばの中におり、神の御救いを霊によって受け取っているのです。父は、このような純真な魂たちを、霊なる神、すなわち、生けるまことの神の礼拝者として求めておられます)
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(神は霊です。霊の目が開かれ霊の耳が開いていないならば、神の遣わされた者を知ることはできません)」(ヨハネ4:21-24)
ユダヤ人たちは、イエスが神の遣わされたキリストである「しるし」を求めました。
しかし、サマリヤの女は、イエスのことばを信じました。そして、「私はあなたは預言者だと思います。」とイエスに言いました。
「女は、イエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのこと(真理)を私たちに知らせてくださるでしょう。』
イエスは言われた。
『あなたと話しているこのわたしがそれ(キリスト)です。』」(ヨハネ4:25、26)
サマリヤの女は、イエスのことばを聞いて、イエスが預言者だと思い、また、イエスのことばを信じて、目の前のユダヤ人(ナザレのイエス)が「キリスト」であると知ったのでした。
律法の下にいて目が覆われたユダヤ人には、イエスがキリストであることが理解できませんでした。イエスの奇蹟やしるしを見ても、心は堅く閉ざされていました。ユダヤ人たちは、霊とまことによって生けるまことの神を礼拝する者ではなかったからです。それで、イエスに置かれた聖霊の力がわからないのです。
霊の閉じている人には、霊の事がわかりません。霊なる神との交わりがないのです。彼らの祈りは、人間のことばであり、神をたたえる礼拝者ではないのです。
ユダヤ人から蔑まれ、イスラエルから除外されているサマリヤ人に、イエスのことばは受け入れられました。彼らは、律法の下におらず、霊によってまことの神を礼拝する者であったからです。
さて、パウロは、聖霊に聞き従って御霊の導かれるままに、伝道活動をしていました。
占いをして主人たちに多くの利益を得させている女が、パウロたちのあとをついて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けました。
占いの霊につかれた若い女奴隷でした。
パウロたちは困り果てて、ついて回るこの女奴隷の中にいる霊に向かって、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言うと、即座に、霊は出て行きました。
しかし、占いの霊が出て行くと、女奴隷は占いの力を失ってしまったので、儲ける望みがなくなった主人たちは、パウロとシラスを捕え、二人を長官の前に引き出して、ユダヤ人たちが私たちの町をかき乱している、と訴えました。
パウロとシラスのふたりは牢に入れられました。看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足かせを掛けて、厳重に番をしました。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
目をさました看守は、見ると、牢の扉があいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる。』と叫んだ。
看守たちはあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。
ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」(使徒16:25-31)
パウロとシラスの祈りは、人間の祈りではありません。霊をもって御霊に仕える彼らの祈りは、聖霊の祈りです。霊とまことをもって神を礼拝する者の祈りです。
また、彼らの賛美は、囚人たちの心に平安をもたらす、御国の賛美でした。
すると、獄舎は、聖霊の臨在に満ち、そこには、天の御国が訪れました。神のみわざが起こりました。天の栄光と地の平和がひとつとなったその場所に、神の御力が現われたのです。
突然、大地震が起こると、牢の扉は全部あき、囚人たちの鎖がみな解けてしまいました。神は、罪の奴隷のくびきを打ち砕き、天に向けられた魂を解放し自由を得させる「魂の父」です。
そのとき、獄舎には、天の御国が訪れていたのでしょう。囚人たちの心は天に向けられていたのです。
看守は、扉があき鎖が解けても逃げ出さない囚人たちを見、また、大地震を起こされた神を恐れました。また、自害しようとした時、ふたりが止めてくれたのです。
看守は、ふたりに、神を見たのでしょう。ふたりを連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と尋ねました。
看守は、パウロとシラスとともにおられる神に救いを見たのでしょう。救われるためには、何をしなければならないのか、と尋ねました。
ふたりは、看守に言いました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
看守は、ユダヤ人のふたりが語る福音を聞き、世の罪を取り除く子羊として罪の贖いの血を流されたイエス・キリストを信じました。
異邦人の看守は、主イエスを信じたのです。
ユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」として来られた主イエスを蔑み、嘲り、憎んで殺しました。
しかし、異邦人の看守は、イエス・キリストのみわざを見ても信じなかったユダヤ人たちとは違いました。
大地震の中で、神に出会ったのです。そして、生けるまことの神を知り、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じたのです。
看守は、ふたりを外に連れ出して彼の家に連れて行き、ふたりから福音を聞いて、看守の家族も信じました。
看守とその家にいる者全部は、バプテスマを受けました。何という速い展開なのでしょう。
三年半もの間、ユダヤ人たちの間を歩かれたのに、ユダヤ人たちは、イエスを信じませんでした。
しかし、異邦人の看守はその夜、パウロの語るキリストの福音を聞いて、信じたらすぐにバプテスマを受けて、信仰を表明したのです。
夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ。」と言わせました。
パウロとシラスが獄舎に入れられたのは、囚人たちが神を知るためであり、看守と看守の家族が救われるためだったのでしょうか。
神は、パウロを通して、異邦人に約束されているようです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
神は、ユダヤ人から救いが出る事と、ユダヤ民族の救いを約束しておられます。それは、神の契約だからです。
神は、イスラエルを選び、ユダヤ民族と契約を結んでおられます。それゆえ、神は終わりの時に、ユダヤ人の時を設けて、ユダヤ民族の御救いの契約を完成されるのです。
神は、民族的な御救いの契約のない異邦人には、家族の救いを約束をしておられるようです。
主イエス・キリストを信じる異邦人との契約です。「主イエスを信じるならば、あなたの家族も救われます。」
聖書のみことばは、地に落ちるようなものではありません。
私たち異邦人は、みことばをもって、こう祈ることができます。
「主よ。あなたの約束です。主イエスを信じた私は、私の家族をも救うという契約をいただいています。それは、あなたの契約なのです。私は、あなたの契約に立ちます。
私は、主イエスを信じて離れません。どうか、私の家族を約束どおり、救ってください。」