ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

思い起こして奮い立たせる

 

 使徒ペテロは、自分が地上に生きている間に、信仰者に思い起こさせ、また、自分が世を去った後にも、いつでも思い起こせるようにと、手紙を書いています。

 ペテロの目的は、信仰に堅く立っている信者たちに、彼らが召されたことと選ばれたことを確かなものとし、つまづくことのないように、彼らを奮い立たせることです。

 

 「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳(良い行ない)を、徳(良い行ない)には知識(聖書の神のことば)を、知識(聖書のことば)には自制(私的解釈をせず神の御霊にへりくだり、神に聞く心)を、自制(神の主権を越えないへりくだり)には忍耐(多くの時間をかけて学ぶこと)を、忍耐には敬虔(神にひれ伏す真実なしもべの心)を、敬虔(神を恐れるしもべの心)には兄弟愛(ほかの信者たちを愛する愛)を、兄弟愛(兄弟姉妹の間の愛)には愛(御霊の愛、すなわち、赦す心と平和)を加えなさい。

 これらがあなたがたに備わり、ますます(敬虔な信仰へと進み)豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(ペテロ第二1:5-9)

 

 敬虔な者へと成長することは、御霊の教えを受けて歩んでいる証です。

 御霊によって造り変えられている人は、御霊によりイエスのことばを思い起こされ、また、真理を教えられている人です。御霊によって造り変えられる新しい人は、イエス・キリストを知る知識を持つ天に属する人であり、天の御国に残る御霊の実を結ぶ者とされるのです。

 

 しかし、敬虔な者へと成長させる御霊の取り扱い(火の試み)を拒み、肉の思いのままで生きる人々は、信仰を持ちながら、愛と赦しの神を知らない近視眼であり、神の栄光を見る事の出来ない、霊の目の閉じた者です。

 そういう人たちは、神の御恵みによって自分の以前の罪が赦されきよめられた者であることを忘れて、聖書の知識により自分たちを高くして、神のみことばによって兄弟姉妹を裁き、裁判官となっているのです。彼らは、神への敬虔も兄弟愛もなく、和解のことを悟らない人です)

 

 ペテロは言います。

 「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(私たちに、キリストの愛を教え、永遠のいのちの信仰と天の御国の希望とを得させてくださる「真理の御霊」に従って)これらのことを行なっていれば、(信仰に)つまづくことなど決してありません。

 このように(御霊にあって、肉を殺し、御霊によって造り変えられて成長している)あなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられているのです。(すなわち、神の子どもに造り変えられているのです)

 

 「私たち(使徒たち)は、あなたがた(信者たち)に、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。(使徒たちの時代には、すでに、キリストの復活の証言や、永遠に生きておられるキリストが来臨されて、被造物の回復とすべてのものが調和する平和な世が起こる、という福音を疑う者たちがいたようです)

 この私たち(使徒たち)は、キリストの威光の目撃者なのです。(キリストが十字架にかかられた時、太陽が隠れ全地が暗くなったこと、また、キリストが息を引き取られると、大地震が起こり、神殿の幕が上から下へと真っ二つに引き裂かれたこと、キリストが墓に納められてから三日目に、キリストが墓から甦り、弟子たちに復活のからだでお現われになったこと、使徒たちが見ている間に、キリストが天に上られた様、また、キリストに命じられエルサレムでもうひとりの助け主を待ち望んでいると、神が、そこで集まって祈っている弟子たちに聖霊を下されたこと、生き証人の使徒たちは、自分たちが体験したことをそのまま証言しました)

 

 ユダヤ人たちには聖書があります。

 ペテロはユダヤ人たちに言います。

 「私たち(ユダヤ人)は、さらに確かな預言のみことば(聖書)を持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに心を留めているとよいのです。」(ペテロ第二1:19)

 

 夜明けとなって、明けの明星(ユダヤ人の時に現われる救い、すなわち世界を救うとささやかれている「イスラエルのメシア」。ユダヤ人たちは、聞き従わなければならない、とモーセに言われたキリストはまだ来られていない、と思っています。ユダヤ人たちは、二千年前の十字架の主イエス・キリストが、神に遣わされたキリストであることを信じていません。イエス・キリストは異邦人の救い主であって、ユダヤ人の救い主であるとは思っていないのです。最後の時までキリストを待ち望んでいるユダヤ人たちは、終りの時に現われる「イスラエルのメシア」を、聖書に預言されたメシアとして、受け入れるのでしょう)がイスラエルに来て、神のことば(預言)を語り、神の不思議としるしのみわざを現わすと、ユダヤ人たちの心を照らす光となるでしょう。ユダヤ人たちは、「イスラエルのメシア」の預言を信じ、ふたりの証人に聞き従うでしょう。

 「イスラエルのメシア」は、イエス・キリストの御思いを成し遂げる、ユダの総督です。十二部族のユダヤ人を一つのイスラエルにする、ユダの総督です。

 ふたりの証人「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」は一致しています。

 

 ユダヤ人たちは、聖書の預言を成就してメシア(ふたりの証人)を遣わしてくださったことを、心から神に感謝するでしょう。ふたりの証人は、反キリストの世の暗闇の中から、ユダヤ人たちを救い出してくれるのです。

 出エジプトのとき、アロンとモーセのふたりが導きました。

 反キリストの奴隷から救い出すメシアは、ふたりの証人です。

 

 キリスト教会は、ユダヤ人を迫害してユダヤ人を苦しめ、ユダヤ人の心にイエス・キリストへの憎しみを植えつけたので、ユダヤ人たちはイエス・キリストに心を閉ざしました。

 ユダヤ人たちの閉ざされた心は、イエス・キリストの御救いを仰ぐことはありません。ユダヤ人たちにとって、イエス・キリストは、ユダヤ人を迫害したキリスト者たちの「主」なのです。

 

 終わりの時に現われるふたりの証人は、神殿の丘に第三神殿を建てることを導く指導者です。また、反キリストに苦しめられて泣き叫ぶユダヤ人たちに、永遠のいのちと天の御国の福音を宣べ伝え、そして、ユダヤ人たちを苦しめる者たちに裁きを宣告するのです。

 

 「ふたりの証人」の出現は、ユダヤ人たちの希望です。神のことばがそのまま人の姿となって現われたようです。

 

 ペテロは、ユダヤ人たちがイエス・キリストにつまづいて、キリストの福音を受けつけないことを知っていました。

 しかし、終わりの日には、ユダヤ人たちが待ち望んだ明けの明星「イスラエルのメシア」が、ユダヤ人たちの心を照らすのです。その時は必ず来ます。

 

 「光が、闇の中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(コリント第二4:6)

 その時までは、暗い所を照らすともしびとして、ユダヤ人たちは聖書のみことばに目を留めているとよいのです。

 

 ペテロは言います。

 「神と私たちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

 いのちと信心とにかかわるすべてのことは(すなわち、永遠のいのちも御霊の信仰も)、主イエスの神聖な力によって、私たちに与えられている。それは、ご自身(神の御子イエス)の栄光と徳とによって、私たちを召された方(父なる神)を知る知識によるのである。

 また、それらのもの(キリストによって与えられた御霊と、御父を知る知識)によって、尊く、大いなる約束(永遠のいのちと天の御国の相続の約束)が、私たちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。」(ペテロ第二1:2-4)