ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストのからだは復活のからだ

 

 からだには多くの部分があります。目や鼻や口があり、手足があり、体の中にはいろいろな器官があります。

 しかし、それぞれの器官が互いに支え合って、一つの体を形成しているのであり、その全部が一つのからだなのです。

 

 「からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全体が一つのからだであるように、キリスト(のからだ)もそれと同様です。

 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(コリント第一12:12,13)

 

 キリストのからだは、一つの御霊を飲む者たちによって構成されます。

 

 キリストがイスラエルに現われる前に、キリストの通られる道を真っすぐにするために神に遣わされた、バプテスマのヨハネがいます。

 ユダヤ人たちの心を、神の遣わされた方(キリスト)に向けさせる、荒野で叫ぶ声です。

 

 ユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて、神が遣わされる聖者キリストを心に迎える備えをしました。

 

 ヨハネは、キリストについて、ユダヤ人たちに証言しました。

 「私(ヨハネ)は、あなたがた(ユダヤ人)が悔い改めるために、(心の向きを神に向けさせ、神に立ち返らせる)水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方(キリスト)は、私よりもさらに力のある方です。

 私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、(悔い改めて心を神に向き直した)あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 (キリストは)手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼く尽くされます。」(マタイ3:11、12)

 

 キリストは、悔い改めの水のバプテスマを授ける方ではなく、永遠のいのちを得させる聖霊と火のバプテスマを授ける方である、と証言しました。

 

 そして、キリストは、手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場(収穫した麦〈キリストを信じる者〉を脱穀し、麦と殻に仕分けて、神の教会〈キリスト教会〉)をすみずみまできよめ、麦を天の御国にはいらせ、殻を永遠の火で燃やしてしまわれるのです。

 

 天の御国は、実を結ぶ者たちのとこしえの国であり、実を結ばない者たちは天の御国にはいることはできません。

 

 実を結ぶ麦は、悔い改めにふさわしい実を結んだのです。

 実のない殻は、神の御怒りが恐ろしくて、裁きをのがれるために悔い改めただけで、悔い改めにふさわしく神に立ち返った者としての歩みをしていない者です。

 

 ヨハネは、民衆に真理を教えず、ユダヤ人たちを羊飼いのいない羊のように迷わせている指導者のユダヤ人たちに言いました。

 「われわれの先祖はアブラハムだ。(それゆえ、私たちは神に御救いが約束されている神の民だ)』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。(神は、神のひとり子イエス・キリストにより、異邦人たちからもアブラハムの信仰の子孫を起こされました)

 斧もすでに木の根元に置かれています。(神の裁きはユダヤ人の中にも起こります)だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:9,10)

 

 世にキリストが現われたならば、まず、良い実を結ばないユダヤ人の木を切り倒され、火に投げ込まれます。すなわち、それらのユダヤ人の名前を「いのちの書」から消されるのです。

 彼らは、永遠のいのちにふさわしい人々ではないからです。

 

 ヨハネの証言のごとく、イエスは、悔い改めにふさわしい歩みをしていないユダヤ人の指導者たちに言われました。

 「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナ(地獄)の刑罰をどうしてのがれることができよう。

 だから、わたし(神である主)が預言者、知者、律法学者たちを遣わすとおまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。」(マタイ23:33,34)

 

 イエスのことばどおり、彼らユダヤ人の指導者たちは、神が遣わされた救い主神の子羊イエス(ナザレのイエス)を十字架につけて殺しました。

 

 キリストは、神の祭司の国民イスラエルに来て、悔い改めのないユダヤ人たちを裁かれました。ナザレのイエスは、神に遣わされた神のひとり子であり、裁きがゆだねられたキリストなのです。

 

 次に、キリストは、キリスト教会の中に来て、永遠のいのちにふさわしく御霊によって新生した子どもと、永遠のいのちにふさわしくない肉のままの人とを仕分けられるのです。それは、異邦人の時の終わりに起こります。

 

 イエスがイスラエルに来られたとき、ユダヤ人の間を歩み、永遠のいのちにふさわしくない者たちに御怒りを表されました。

 悔い改めがなく、キリストの民になるのにふさわしくないユダヤ人たちの名前を「いのちの書」から消されました。

 そして、ユダヤ人たちの中から、神が救い主として遣わされた神の御子イエス・キリストに聞き従うしもべを使徒として立て、キリストを信じる正しい者たちが集う「神の教会」を建てられました。

 

 終わりの時に、キリストの御霊は、キリストによって救われた神の子どもたちのキリスト教会に来て、御霊によって新しく生まれ新生した神の子どもと、肉のままの自称神の子どもとに仕分けされます。

 

 そして、真理に対して無知なゆえに肉のままの人たちは、悔い改めて、神の御救いの時を待ちます。彼らは、反キリストの像を拝まず、また、反キリストの刻印を拒んで刻印を押されずに、反キリストによって殺されて、永遠のいのちを得る人たちです。

 しかし、それでも頑なに悔い改めることをしない者たちは、新生した人たちを迫害する者になるか、あるいは信仰を失うことでしょう。背信者と棄教者とに分かれます。どちらも、「いのちの書」から名前が消されます。

 

 終わりの時、キリスト教会の中から、御霊の教会が起こされます。神の国のために、血を流す殉教者たちです。彼らの血は尊ばれ、彼らは死から甦って、復活のからだで天に引き上げられて子羊の婚宴に招かれます。

 

 キリストは永遠に生きる人です。人の子であって、御霊によって新しく創造され、死から復活した「新しい人」なのです。

 キリストのからだは、一度死んでも甦り、永遠のいのちを得させ復活のからだを着せる御霊の、新しい創造によって造り変えられた「新しい人」により構成されます。

 

 かしらなるキリストが永遠に生きるので、キリストのからだは、永遠のいのちを得させられる神の子どもたちの集合体なのです。

 

 キリスト教会の中の多くの人は、聖霊の事を知りません。キリスト教会に属するならば、キリストのからだに属していると考えます。

 

 しかし、聖霊のバプテスマを授けるキリストに繋がっていないならば、それは、福音をユダヤ人たちに伝えたナザレのイエスのからだに繋がっているのです。

 十字架につけられた子羊イエスです。肉に死ぬことを教えられます。

 

 しかし、キリストは十字架の上にはおられません。墓にもおられません。キリストのからだは十字架から降ろされて、墓に納められ、死から甦って、復活のからだの「新しい人」となって、天に上られました。

 神の子羊イエスは、父なる神の御座の右に着座し、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられたのです。

 

 キリストのからだは、復活のからだです。

 肉のからだではなく、御霊によって生まれた人が、新しい創造を受けて、死から甦らせる永遠のいのち【真理の御霊】を得、御霊の与える復活のからだを着る「新しい人」のからだです。

 

 肉によっては、キリストのからだの部分となることはできません。

 キリストのからだは、すべての者が一つの御霊を飲む者とされるのです。

 

 ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、一つのキリストのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマ(キリストが授ける聖霊と火とのバプテスマ)を受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされるのです。

 

 一つの御霊を飲むキリストのからだは、復活のからだを得て、天の御国にはいり、永遠に生きる神の子どもとされるです。