日本の相撲は神の神技だと聞きました。神の御前で神に奉納するものだそうです。神聖な儀式なのですね。
お相撲さんは、日本人だけではありません。外国人の力士もおられます。横綱になると、外国人であっても、白麻で編んだしめ縄を、化粧まわしの上に締めます。
日本の神社において白麻で編んだしめ縄を結びつけるのは、神聖な場所を示すためです。
神技である相撲界の最も強い横綱は、化粧まわしの上からしめ縄を締めることが許されており、まるで、横綱の人間そのものが神社のような扱いです。
日本の神道では、山や岩や樹木などに神の御力を認め、しめ縄を張り、神として崇めて来ました。
力強い力士に、神の御力を認めたということでしょうか。
ある民族は、自分の民族に強い誇りを持っています。そして、日本の国技である相撲の力士になってからも、その誇りを持ったままです。
日本の文化である相撲に携わりながら、日本の文化に対して不遜に思われることが度々ありました。
日本人たちは、相撲が神技であり、日本の文化であることを、わかっていながらわかっていないかのようになっています。
日本の文化の根底には、日本人の精神があり、日本人の精神をかたち造っているのは、日本の神々への崇敬の念です。目に見えない存在をかしこむ心です。
ある横綱が日本国籍を取らないで、自分の民族の人のまま、民族の誇りを保とうと考えました。結局、日本国籍となりましたが、日本の国技であり、日本の神技である相撲をどう捉えているのか、と怪しみました。それ以上に、ただ強いことで彼を歓迎している相撲協会と相撲のファンの人たちに驚いたものです。
相撲ファンでもない私が、相撲に神を認めているのに、相撲好きな日本人たちは、神技としてではなく、勝負として相撲を見ているのですね。
多くの日本人が、その横綱力士に熱狂する中で、冷めた心で私は、「日本の神はこの人を受け入れないだろう。」と思いました。
私は、聖書の神を信じる者ですが、日本の神々を偶像の神々だとは思いません。私には、日本の神々の中に生けるまことの神を感じられるからです。
日本の神社の神々を日本の神と考えます。日本の神は日本人の神であり、日本列島におられる神です。
日本列島の中にはいった外国人を受け入れるか受け入れないかは、日本人ではなく、日本の神が決めておられると思います。
日本の神を敬わない者、日本の文化に敵対する者、日本人を憎む者が、日本の神に喜ばれるはずはないと思うのです。
聖書の神は、ご自身を「イスラエルの神」と名乗っておられます。イスラエルの神は、ユダヤ人の神であって、イスラエルとともにおられる神です。
イスラエルの神は、ユダヤ人を憎む者、イスラエルを呪う者を受け入れられるでしょうか。私は、そう思いません。ユダヤ人を愛する者、イスラエルを祝福する者をイスラエルの神である「聖書の神」は、お喜びになるのではないでしょうか。
多くの人は、文明が開かれた世界で、目に見えない神の存在を忘れてしまっています。神社でお参りしても、神を意識することのない日常を過ごします。
神の目線で物事を見、神の視点を意識する人は、わずかです。多くの人は、真理の光を見ていないのです。真理からずれた道を平気で歩いています。
世のすべてのことを決定づけるのは、目に見えない神です。異議を唱える人も、そのことは真実なことであったとわかる日が来ます。神の御前に立つときに、はっきりと知るのです。
神は、アブラハムに、ユーフラテス川からナイル川までのカナンの地を、アブラハムの子孫に所有地として与えることを約束されました。
神は、アブラハムの子孫ヤコブ(イスラエル)に現われて、カナンの地をイスラエルの相続地として与えることと、世界のどこにいても、必ず、カナンの地に集めることを約束されました。
現在のイスラエルを見てみましょう。
世界の諸国に離散していたユダヤ人たちが、第二次世界大戦の終戦後、少しずつ帰還し、先祖たちの眠るカナンの地に、ユダヤ人の国イスラエルを建国し国連の認可を受け、イスラエル国家が再建されました。
かつてローマ帝国に滅ぼされ、世界に離散していたユダヤ人の子孫たちは、神の時が来て、再び先祖の地に帰還してユダヤ人の国をつくりました。
ローマ帝国は、イスラエルの国を否定してユダヤ属州とし、イスラエルと呼ばれていたイスラエル国の土地を、「パレスチナ」(ペリシテ人の地)と改名しました。
ユダヤ人たちが離散してから帰還しつつある現在に至るまで、かつてイスラエルの国があった地は、ローマ帝国がつけた「パレスチナ」の名前で呼ばれています。
ユダヤ人たちが再びイスラエルを建国しないように、ローマ帝国の図った反イスラエルの思想の痕跡です。また、十字架を掲げる神聖ローマ帝国は、反ユダヤ主義、反イスラエル主義を世界に普及した立役者でもあります。
神の御子イエス・キリストはユダヤ人です。しかし、カトリックは、キリストを十字架につけ殺した民族として、ユダヤ人を迫害し殺すことが、キリストのための正義だと考えたのでしょう。
神の視点で見れば、神は、神の祭司の国民ユダヤ民族に、神の子羊イエスを遣わされました。神の祭司の国民が、神が備えられた「世の罪を取り除く神の子羊イエス」を十字架で屠りました。
祭司の国民の手によって屠られた神の子羊の贖いの血を、神は受け入れられて、贖いのみわざを満足されました。ユダヤ民族は祭司の国民の務めを果たしました。
罪のための生贄、また、神をなだめる全焼の生贄は、祭司によって神にささげられるものです。神に定められていない者、祭司でない者にささげられた生贄は無効です。かえって、神の怒りを買い、民にわざわいが起こります。
神は、祭司の手から贖いの血を受け取られ、御心をなぐさめられるのです。
罪の贖いの子羊の血は、神の祭司の国民ユダヤ人の手によって流され、とこしえの大祭司であられる、死から復活されたキリストが、天のまことの聖所に、子羊の血を携えて入られました。
キリストが携えてきた贖いの子羊の血は、天の神に受け入れられました。神は、世の罪を取り除き、永遠のいのちを得させるキリストの血を「聖なる贖いの血」として受けられ、満足されました。
キリストの血は、神の都エルサレムで流されただけではありません。天の神のまことの聖所に携えられて、神にささげられたのです。
キリスト教は、それを理解しませんでした。彼らは、旧約聖書の祭司の規定を知らないのです。旧約聖書に土台を置く「イスラエルの神」を知らないのです。
イエス・キリストは、イスラエルの神によって、イスラエルに遣わされた救世主です。ユダヤ人の王として、ユダヤ人の間を歩かれた、人の姿をした神の御子です。
聖書はユダヤ人たちによって書かれ、ユダヤ民族はイスラエルの神に仕える民です。キリストは、イスラエルの神が契約の民を救うために、イスラエルに遣わされた神のひとり子です。キリストは、ユダヤ人としてベツレヘムで生まれ、ナザレの町で育ったユダヤ人です。
ユダヤ民族は、イエス・キリストの兄弟であり、同胞です。
「救いはユダヤ人から出る。」とは、聖書の神、天地万物を創造し、すべてのもののいのちの根源であられる全能の神が定めておられることです。
ユダヤ人を憎むことは、ユダヤ人であるキリストを憎むことであり、イスラエルを呪うことは、イスラエルの神である全能の神を呪うことなのです。
人は人道主義のあおりを受け、人の正しいと見える感情によってコントロールされ、正義の旗を掲げます。
人を想う人道の道は正しい道、真っすぐな道に見えます。しかし、すべての決定は、私たちを生かしておられる主から来ます。正義は、真理の神がはかられるのです。
神は、人に永遠のいのちを得させるために、聖書を書かれました。聖書に書かれていることは、いのちの道を歩むための道しるべです。
神は、イスラエルの神であられ、イスラエルの民と契約を結んでおられます。
神は、アブラハムの契約の成就を、ユダヤ民族に約束しておられます。
神は、イスラエルに、ユーフラテス川からナイル川までのカナンの地を相続させられます。
現在、神が御自身のために選ばれたエルサレムは、イスラエルのものとなっているでしょうか。ユダヤ人たちは、キリスト殺しの汚名を着せられてキリスト教徒から迫害され殺された記憶があります。そんな悪魔のような恐ろしいキリスト者たちの救い主を、どうしてユダヤ人たちがユダヤ人の救い主だと信じる事ができるでしょうか。
しかし、ユダヤ人たちの中にも、キリストを主として受け入れる人たちが起こりました。彼らは、ナザレのイエスがユダヤ人であり、イスラエルの救いのために死なれたキリストであることを知ったのです。
彼らは、キリストを信じることによって神と和解しました。それゆえ、神は、離散していたユダヤ人たちを集めて、ユダヤ人の国イスラエルを建国されたのです。
なぜ、エルサレムがイスラエルのものとなっていないのか。それは、ユダヤ人の多くが神の敵として歩んでいるからです。神が遣わされた神の御子イエス・キリストを信じないことで、キリストを遣わされたイスラエルの神をも信じていないのです。
神の律法(旧約聖書)は知っているのに、父祖アブラハムが仕えた生けるまことの神との交わりを持っていないのです。
血の通わない肉体は、細胞が壊死して死んでゆきます。生けるまことの神の御霊の通わないキリストのからだは、やはりいのちの機能を持っていないのです。
イスラエルは、神のからだであるはずなのに、かしらであるキリストを拒み、御霊のいのちを持っていません。それゆえ、先祖の罪を持ったままです。
キリストの血によって贖われたはずなのに、贖いを拒み、神と和解していないのです。
神との平和を持たないイスラエルに、神はエルサレム(平和の町)をゆだねることはありません。
しかし、カナンの地は、イスラエルの相続地です。神の契約だからです。神の視点で見れば、ユーフラテス川からナイル川までのカナンの地はイスラエルのものです。
神の視点は、聖書の中にあります。
イスラエルを治める権威を神から受けたキリストは、天から来られて、ユーフラテス川からナイル川までのカナンの地をきよめられます。その地に住む住民をみな滅ぼされます。彼らは、神の民の地を占領した反キリストの国民だからです。
イスラエルは、かしらなるキリストに結びつき、キリストのからだとなります。これが、神が初めから御計画しておられることです。
神のことばは堅く立ち、神は成し遂げられます。
その時、神のことばに不遜であった民は、みな滅ぼされるのです。
神のことばは地に落ちることがありません。それゆえ、人道的にどう人の目に映ろうが、神のことばに立ち続ける勇気が必要です。それには、神のことばへの信仰と神への信頼が必要です。
神の視点で見、神のことばの中に留まることを学ぶならば、神の約束のものを受けることができます。
神の約束は、永遠のいのちです。そして、天の御国のとこしえの安息です。