ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

静かな細い声

 

 四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた預言者エリヤは、そこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごしました。

 すると、主のことばがエリヤに臨んで、エリヤに言われました。

 「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」(列王記第一19:9)

 

 エリヤは言いました。

 「私は万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約(全能の神の契約)を捨て、あなたの祭壇を壊し、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただ私(預言者エリヤ)だけ残りましたが、彼ら(神に背くユダヤ人たち)は私の命を取ろうとしています。」(列王記第一19:10)

 

 イスラエルは偶像礼拝をし、自分の好き勝手な道を歩いていました。神の預言者たちの語る神のことばは、警告であり、非常に厳しいことばでした。それゆえ、イスラエルは、預言者たちを嫌い、神のことばを語る預言者たちを殺していました。

 

 エリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、荒野にはいり、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を求めて主に言いました。

 「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありませんから。」(列王記第一19:4)

 

 エリヤが木の下に伏して眠ると、ひとりの御使いがエリヤにさわって、「起きて、食べなさい。」と言いました。エリヤの頭のところに、焼いたパン菓子が一つと水のはいった壺があり、エリヤはそれを食べて飲んで、また横になりました。

 それから、主の御使いがもう一度戻って来て、また、食事をさせると、エリヤは力を得て、四十日四十夜歩いて、ホレブへとたどり着いたのでした。

 

 ほら穴にいるエリヤに、主は言われました。

 「『出て、山の上で主の前に立ちなさい。』

 その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた。

 エリヤはそれ(神の細き声)を聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞こえた。

 『エリヤよ。あなたはここで何をしているのか』」(列王記第一19:11-13)

 

 エリヤは油注がれた預言者です。神のことばをあずかり、王に神のことばを告げる者でした。神の声を聞く人でした。

 

 主は、エリヤに、ほら穴から出るように仰せられました。

 エリヤはほら穴の中で、山を裂き岩を砕く大きな強い風を見て主を捜しましたが、風の中にはおられませんでした。大風の後に地が揺れました。地震の中に主を見い出そうと捜しましたが、地震の中にも主はおられませんでした。地震の後に火が見え、火の中に主を捜しましたが、火の中にも主はおられませんでした。

 

 現象の中に、主の痕跡はありますが、主御自身を見い出すことはできませんでした。

 しかし、火の後に、静かな細い声が聞こえました。

 

 細い声はことばです。ことばは神でした。神は、ことばとしてエリヤに現われました。

 人は、現象の中に神を感じます。しかし、神のことばを知る預言者エリヤは、その現象の中に神の実質を捉えないで、神御自身を待ち望みました。

 そして、静かな細い声を聞くと、エリヤは、神を直接見る事がないように顔を外套で包んで、ほら穴から出て、ほら穴の口に立ちました。

 

 「ほら穴から出て、山の上で主の前に、立ちなさい。」と仰せられた主が、エリヤの前を通り過ぎられると、大きな強い風、地震、火が起こりました。大きな強い風も地震も火も、エネルギーに満ちたいのちの根源なる神が通られたときの神の現われに伴う現象でした。

 

 目に見えない神が通り過ぎられるときに、風が吹き、地は揺れ動き、火が現われました。神の歩みに伴う自然現象です。

 自然界は、神の存在の御威光を受け、神の御力としるしとを現わしたのです。しかし、人の目には神が見えません。気配を感じるだけです。エリヤは、なお神を待ち望みました。

 

 神は、エリヤに、声で知らされました。それは、静かな細い声です。

 エリヤは、強い風の中に神のことばを見い出しませんでした。地震の中に神のことばを見い出しませんでした。自然火の中にも神のことばを見い出しませんでした。

 エリヤは、ことばの神を求めていました。神のことばを待ち望んだのです。

 

 そして、神の声を耳にしました。それは、静かな細い声でした。大きな強い風に伴う嵐のような音ではなく、地震の地響きのようなわき起こるような音ではなく、激しい火のすべての音を消し去るような音でもありません。

 

 脳内に届いた静かな細い声です。エリヤに直接届いた、エリヤに語りかけられる声です。

 

 神の声を認識したエリヤは、聖なる神の御前に立つ用意をして(顔を覆って)ほら穴を出て、ほら穴の口に立ちました。

 

 すると、神は語られました。

 「エリヤよ。あなたはここで何をしているのか。」

 エリヤは、ほら穴で言った言葉を繰り返しました。

 

 神は、エリヤが神を知る者であることを確認されました。

 大きな強い風のしるしで神を見たと有頂天になる者ではありません。地震のしるしで神に出会ったと恐れる者ではありません。火のしるしで神の威光を見たと満足する者ではありません。

 エリヤは、神御自身を求めたのです。

 

 神は、静かな細い声でエリヤに現われました。

 エリヤの心は騒いでいませんでした。エリヤの心は、なぎのように静かで平安でした。それゆえ、神の細い声を捉えることができました。

 

 神は、エリヤにこの後のことを語られました。これからエリヤが成すことです。

  ダマスコに赴きハザエルに油を注ぎ、アラムの王とすること。

  ニムシの子エフ―に油を注いでイスラエル(北イスラエル王国)の王とすること。

  アベル・メホラのシャファテの子エリシャに油を注いで、エリヤに代わる預言者と 

  すること。

 

 神は語られました。

 「ハザエルの剣をのがれる者をエフ―が殺し、エフ―の剣をのがれる者をエリシャが殺すであろう。

 また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。(偶像礼拝をしない七千人を残しておく)」(列王記第一19:17,18)

 

 主の預言者でただひとり残ったと思っていたエリヤでしたが、実は、偶像礼拝をしなかった七千人のユダヤ人が残されている事を知りました。忠実な神のしもべは、ほかにも生き残っていたのです。

 

 神のことばを受けたエリヤは、すぐに神のことばに聞き従いました。

 神に命じられたように、三人に油を注ぎました。

 

 北イスラエルの王アハブの家に、エリヤの預言は成就しました。アハブ王が死に、アハブの子アハズヤ王も死にました。

 

 すべての事を成し遂げたエリヤを、主はたつまきに乗せて天に上げられました。それは、エリヤとエリヤに油注がれたエリシャが、ふたりで進みながら話している時に起こりました。一台の火の戦車と火の馬とが現われ、ふたりを隔てると、エリシャは、エリヤがたつまきに乗って天に上って行くのを見ました。

 

 エリヤは、神と契約を結ぶイスラエルの中で、携挙される人たちの初穂です。最後まで神に忠実に聞き従った預言者エリヤは、携挙される御霊の教会の初穂でした。

 

 神の声を聞きたいと願う人は、「聞こえない。聞こえない。どうしたら聞こえるのか。」と心騒がせます。

 神は、決して大きな声で語られません。心にすーっと入るように、静かに訪れられるでしょう。

 

 キリストにより聖霊が注がれている現代では、御霊の器のすべての人が御霊を持っています。

 旧約時代は、神に油注がれた者だけが神の声を聞いたことでしょう。しかし、御霊が注がれている御霊の器は、御霊の助けにより、神の御声を聞くことができます。

 

 神は確かに語っておられます。

 しかし、受け取る側の人の心が、静かな細い声を受信できるほどに、静かではないのです。

 神が語っておられないのではなく、自分の心の中のざわめきが静かな細い声をかき消し、全く聞こえない状態にしているのです。

 

 黙想しこの世の煩いを追い出して、神の細い声を聞けるほどに、心を無にしましょう。

 心が静かであれば、雑踏の騒音の中でも、神の御声がさっと入ってきます。

 神の静かな細い声は、肉の耳で聞く声ではないからです。脳内にひらめくような訪れであったり、心に語りかけられるような振動のようなものです。

 

 日頃から、神に心を向けて静かな時を持つことは良いことです。祈りでもなく、ただ神を意識して心の中で神と繋がるような感じです。

 自然の中に身を置いて、生かしてくださる神に感謝し、花に癒され、木々を揺らす風を感じ、鳥の声に耳を傾けていると、周囲の音が聞こえなくなり、自分のうちの霊の部分の解放のようなもの、翼を得てはばたいていくような心の自由と、生かしてくださる神のいのちの中でリラックスする魂の静かな安らぎを得ることでしょう。

 

 現代人は疲れています。それゆえ、魂の安らぎを体験する機会を失っています。現代社会は、霊の存在としての感性が育つ環境ではないのです。それゆえ、意識的に魂を安らがせる環境をつくることは大切です。

 魂の安らぎ、霊の静けさを知るならば、御霊の感性をもっと意識的に体験することでしょう。

 

 神の静かな細い声は、どんな奇蹟やしるしや不思議よりも、私たちひとり一人を慰め、励まし、勇気づけてくれるのです。