「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決して揺るがされない。』
主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。
主よ。私はあなたを呼び求めます。
私の主にあわれみを請います。」(詩篇30:4-8)
口語訳聖書には、こう書いてあります。
「主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なる御名に感謝せよ。
その怒りはただつかの間で、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもずがら(夜どおし)泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る。
私は安らかな時に言った、『私は決して動かされることはない』と。
主よ、あなたは恵みをもって、私を揺るがない山のように固くされました。
あなたが御顔を隠されたので、私はおじ惑いました。
主よ、私はあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました。」
イエスの弟子たちは、この詩篇にある絶望ととこしえの希望とを体験しました。
イエスにつき従った十二使徒たちは、イエスが捕らえられると、師を失いました。
イエスが祭司やパリサイ人たちから攻撃されても、弟子たちには危害が及びませんでした。イエスが守っておられたからです。
使徒たちは、ナザレのイエスが、神の遣わされたキリストであることを信じていました。
イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、弟子たちは、どんなに誇らしかったことでしょうか。
群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方(イスラエルの神が遣わされたキリスト)に。ホサナ(神をほめたたえよ)。いと高き所に。(栄光が、天の御座に座しておられる全能の神にあるように)」と言って、叫んでいたのです。
時は、ローマ帝国の圧政に苦しんでいるイスラエルです。ユダヤ人たちは、イスラエルが慰められることを望み、ガリラヤのナザレ出身の預言者イエスに期待しました。貧しい者、社会的立場のない者たちは、イエスを「ダビデの子(キリスト)」と呼んでいました。
イエスの弟子たちは、「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(マタイ21:5)の、イザヤの預言の成就を見ていたのです。
しかし、イエスは祭司たちに捕えられ、総督ピラトが書いた『ユダヤ人の王』という罪状書きの十字架につけられて、死んでしまわれたのです。
イエスの父(イスラエルの神)について、天の御国について、永遠のいのちについて、助け主の真理の御霊について教え、真理を語っておられた先生はもうおられないのです。
弟子たちは、悲痛な思いで、十字架上のイエスを見ていたことでしょう。
十二時から全地は暗くなって、三時まで続きました。イスラエルは光を失ったのです。
イエスが息を引き取られると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が揺れ動き、岩が裂けました。(神殿の幕は人手によらず、上から裂けました。神殿の中の聖所と至聖所を仕切っていた垂れ幕が裂けたのです。レビ族の祭司のときは終わりました。ユダ族から出たとこしえの大祭司キリストが罪の贖いの子羊の血を携えて、天のまことの聖所にはいられるのです。神の御子イエス・キリストが、神と人との仲介者となられたからです)
百人隊長や彼といっしょにイエスの見張りをしていたローマ人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」(マタイ27:54)と言いました。
イエスは、ユダヤ人たちの間を歩き、病人の癒しや悪霊追い出し、死人を生き返らせたり、奇蹟を起こしたり、不思議としるしにより、神の栄光を現わされました。
十字架の死においても、様々なしるしが現われました。太陽が暗くなり、神殿の幕が裂け、岩が裂けるほどの大きな地震が起こったのです。
しかし、弟子たちの先生は死んで墓に納められてしまいました。
イエスに神の栄光を見ていた弟子たちの目に、もはや光はありません。ただ、不安と恐れだけが彼らを襲います。これからのことは考えられません。
かつて、ペテロは、イエスに言いました。
「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
その告白を聞いたイエスは、「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」とペテロに言われました。
ペテロは力を込めて、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなた(イエス)を知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。みなの者もそう言いました。
しかし、ペテロは三度知らないと言い、弟子たちはみな、イエスをおいて逃げ去りました。
ペテロは、鶏が二度鳴いた時、イエスのことばを思い出して泣きました。弟子たちは、自分たちの誓いどおりに行動することはできませんでした。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネがキリストの王座の右と左にすわることを願った時、イエスは、困惑して「私が飲もうとしている杯を飲むことができますか。(人々から憎まれ、捨てられ、十字架にかけて嘲笑いながら殺される、神の国の為の犠牲を払えますか)」と言われると、ふたりは「できます。」と答えました。
すると、イエスは言われました。
「あなたがたはわたしの盃を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々がいるのです。」(マタイ20:23)
イエスは、ふたりのうちに、神の国のために自分自身をささげる信仰を御覧になっておられました。信仰があるからと言って、自分の願い通りの報いがあるわけではありません。
イエスは弟子たちにこう言っておられます。
「(主人である神が)自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。成すべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:10)
ヤコブとヨハネは、イエスに「あなたのために、いのちをささげます。」と言いました。しかし、殺す者たちを恐れて、逃げ去る自分たちがいました。
イエスは、事前に使徒たちに、ご自分が十字架につけられることと、死後三日目に甦ることを話しておられましたが、彼らの心は闇の中です。
ユダヤ人たちを恐れて戸が閉めてある家に集まっていました。
弟子たちのいる戸の閉めてある家の中に、復活のイエス・キリストが来られ、彼らの中に立って、言われました。
「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)
十字架で刻んだ傷がついた手と脇腹を弟子たちに示されると、弟子たちは、喜びました。本当に、先生は死から甦られたのだ。
弟子たちは、ユダヤ人たちへの恐れだけではありません。師を裏切った役に立たないしもべの自分たちを恥じ、悲嘆にくれていたのではないでしょうか。
しかし、人をよく知る神の御子イエスは、彼らの後ろめたさを払拭されました。
役に立たないしもべらの弱さを赦し、まるで従順なしもべたちに言われるかのようなことばを語られたのです。イエスは、弟子たちを咎めることはありませんでした。
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたし(死から復活した栄光の神の御子キリスト)も(弟子である)あなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)
そして、弟子たちは、キリストのことばに聞き従い、エルサレムに集まって、もうひとりの助け主、真理の御霊を待ち望みました。
すると、聖霊が下られて、弟子たちはキリストの御霊によって、キリストの御思いを知り、キリストに聞き従って、神の栄光を現わす聖霊の器となりました。役に立つ神のしもべとなったのです。
もはや、師を失って将来がわからない弟子たちではありません。神は、イエス・キリストに代わって、弟子たちの心に住み彼らを導くもうひとりの助け主である「真理の御霊」をひとりひとりに分け与えられました。弟子たちは孤児ではありません。
イエスの父が彼らの父となり、聖霊がキリストの御思いを知らせて、正しいいのちの道へと導き、神の国の働きを成し遂げさせてくださるのです。
弟子たちは告白していました。「たとい(イエスと)ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。(イエス・キリストを決して否みません。死に至るまで、私はあなたに従います)」(マルコ14:31)
イエスといっしょにいたときに、弟子たちは「私は、決して揺るがされない。(イエス・キリストを信じ続けます)」と言っていたのです。
御霊の祈りをして地に生ける水の川を流し、真理の光を照らしていた御霊の器と、聖霊が引き上げられる時が来ます。
すると、真理を教える御霊、イエスのことばを思い起こさせてくださる御霊は、もうおられません。助け主を失った人たちは、うろたえ、失意のどん底で光を失います。闇の世の恐ろしさに絶望します。御救いの約束はどうなるのでしょうか。
しかし、聖霊を引き上げられた神は、真理の御霊を失った人たちに、ふたりの証人と十四万四千人のユダヤ人の福音宣教のことばをお与えになります。
救いはユダヤ人から出る。神は、この約束を成就されます。
十四万四千人のユダヤ人が世界宣教をし、神に望みを置く人たちは、彼らの宣教のことばを信じ、信仰に熱心でなかったことを悔い改めて、彼らのことばに聞き従うでしょう。
彼らは、闇の世に、光を見るのです。そして、その光から決して目を離さず、ユダヤ人たちは反キリストの像を拝まず、また、神を求める人たちは反キリストの刻印を拒んで殺されます。
彼らは自分の命を捨てて、永遠のいのちを受けるのです。
信仰に勝利する人たちは、いのちの冠を受けます。
聖霊が引き上げられても、絶望の夜のままではありません。
必ず、希望の朝がやって来るのです。
おじ惑う心を、主に向けて、主を呼ばわり、ひたすら主に請い願う者を、神は決して捨てられません。
「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。
主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。」(ヨエル2:13,14)