「パリサイ人はイエスに言った。
『あなた(イエス)は自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。(自分自身の証言は有効ではありません。ユダヤの律法では、二人、三人の証言者によって証言されなければなりません)』
イエスは答えて、彼らに言われた。
『もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。(イスラエルの神であられる天の神のみもとから来た神の御子イエスは、自分のことばを話しているのではありません。父のことば、すなわち、イスラエルの神のことばを話しているのです。イエスのことばは、イエス自身の証言ではなく、父なる神の証言でもあるのです)
わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。(イエスは、神から出て、神のみもとへと帰って行くのです)
しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知りません。(律法によって霊がふさがれて、生けるまことの神、すなわち、霊なる神が見えなくなっているユダヤ人たちは、霊の父のことも、神が遣わされたキリストのことも理解できません)
あなたがたは肉によって(人間的判断で)さばきます。わたしはだれをもさばきません。(神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである〈ヨハネ3:17〉)
しかし、もしわたし(神の御子イエス)がさばくなら、そのさばきは正しいのです。(神の御子は、父なる神とともに、最後の裁きの座、すなわち、白い御座に着くお方なのです)なぜなら、わたしひとりではなく、わたし(子なる神)とわたしを遣わした方(父なる神)とがさばくのだからです。
あなたがた(ユダヤ)の律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
わたし(神の御子)が自分の証人であり、また、わたしを遣わした父(創造主であり裁き主であられる全能の神、主)が、わたし(ナザレのイエス)についてあかしされます。(ナザレのイエスは、イスラエルの神が遣わされたキリストです。しかし、霊の目の閉じたユダヤ人たちにはわかりません。霊の目が開かれなければ、見えません。霊の耳が開かれなければ、聞こえません。霊のことは霊によって知るのです)』
すると、彼ら(パリサイ人たちユダヤ人)はイエスに言った。
『あなたの父はどこにいるのですか。(ナザレのイエスは、ナザレの大工ヨセフのせがれではないか。そして、すでにヨセフは死んでいる。なぜ、イエスは、父に遣わされた、と言うのか。イエスの言っているイエスの父とはだれのことか。その父とは、いったいどこにいるのか)』
イエスは答えられた。
『あなたがた(ユダヤ人たち)は、わたし(イスラエルの神に遣わされて来たキリスト)をも、わたしの父(イスラエルの神)をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。(キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた神をも受け入れるのです。キリストを信じる者は、父なる神をも信じるのです。父なる神とは、イスラエルと契約を結ばれたイスラエルの神のことです)』(ヨハネ8:13-19)
イエスは、契約の民ユダヤ人たちに、「あなたがたは、イスラエルの神を知らない。」と言われました。
イスラエルの神の民に、イスラエルの神を知らない者だと言われたのです。
イスラエルの神は、ユダヤ人たちの神です。しかし、ユダヤ人たちは、神に仕える民だと自負していながら、仕えている神を知らない者となっていたのです。
イスラエルの神は、アブラハムが仕えていた神です。イスラエルの神は、アブラハムと契約を結ばれた全能の神です。全能の神は、生けるまことの神、主です。
アブラハムは、神の御声を聞きました。神の御使いを見ました。アブラハムの霊は、生けるまことの神、主とともにあったのです。
「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼(アブラハム)は神の友と呼ばれたのです。(アブラハムは、信仰によって義とみなされただけではなく、ひとり息子のイサクをささげた行ないによって、「神の友」と呼ばれました。神もまた、神のひとり子を与えられるからです。ひとり子イサクをささげたアブラハムは、ひとり子(神の御子ナザレのイエス)を人類にお与えになる、父なる神の犠牲の痛みと苦しみとを知る、「神の友」なのです)」(ヤコブ2:23)
イスラエルは、神の友アブラハムの子孫です。
しかし、イスラエルは、神のひとり子を殺し、悔い改めることがありません。彼らは、父祖アブラハムのようではありません。アブラハムを「友」と呼ばれる神を知りながら、その神のひとり子を憎みののしりました。
アブラハムの子孫イスラエルは、神のひとり子の友ではありませんでした。
イエス・キリストは、神がキリストにお与えになった黙示を、その御使いを遣わして、しもべヨハネにお告げになりました。その内容を記録したものが、『ヨハネの黙示録』です。
「御使いはまた私(ヨハネ)に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。
預言者たちの魂の神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべ(ヨハネ)に示そうとされたのである。」(黙示録22:6)
ことば(預言)を授ける主は、預言者たちの魂の神である主であり、霊の父です。
霊の父である神の遣わされたキリストを知ることができないのは、霊が死んでいるからです。
イエスは弟子たちに言われました。
「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(ヨハネ16:28)
弟子たちは、イエスがどこから来て、どこへ行く方なのかを知りました。弟子たちの霊は啓かれ、弟子たちの霊が、まことの光(真理)、まことのいのちを知ったからです。
弟子たちは、イエスのことばに従い、エルサレムに集まって、もうひとりの助け主である真理の御霊が下って来られるのを待ち望みました。
彼らは、信仰によって、聖霊を受けました。キリストの授ける聖霊のバプテスマを受けたのです。
イエスは弟子たちに言われました。
「もし人々がわたし(イエス・キリスト)を迫害したなら、あなたがた(イエスの弟子たち)をも迫害します。
もし彼らが(悔い改めて)わたしのことば(神の御子イエス・キリストのことば)を守ったなら、あなたがたのことば(御霊が語らせられることば)をも守ります。
しかし彼ら(悔い改めることがなく、心頑なな人たち)は、わたしの名のゆえに(イエス・キリストを信じるがゆえに)、あなたがた(キリスト者)に対してそれらのこと(イエスにしたと同じこと)をみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方(生けるまことの神)を知らないからです。(聖書を信じていても、生けるまことの神、主を知らないのです)」(ヨハネ15:20,21)
「わたし(イエス・キリスト)を憎んでいる者は、わたしの父(天の神)をも憎んでいるのです。」(ヨハネ15:23)
イエス・キリストを憎む者は、霊の父を知らないのです。私たちを生かしてくださる、生けるまことの神を知らないのです。彼らは肉によって生きる者たちです。それゆえ、霊は閉じ、霊の父を知ることができないのです。
「わたし(イエス・キリスト)が父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたし(イエス・キリスト)についてあかしします。あなたがたも(真理の御霊によって)あかしするのです。初めからわたしとともにいっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26,27)
真理の御霊を受ける私たちは、御霊によって「霊の父」を知りました。
なぜなら、神は、「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださったからです。
裁き主である神が遣わされた「救世主(神の御子イエス・キリスト)」を知る者、すなわち、イエス・キリストの生き証人である弟子たちの書いた「福音書を信じるキリスト者」たちは、キリストの御霊によってイエスを知り、霊の父を知り、イエス・キリストをあかしする者とされます。
イエスは言われます。
「わたし(イエス・キリスト)があなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。
わたし(神の御子イエス)はあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:14,15)
霊の父を知った私たちは、神の協力者であり、御霊によってキリストの同労者となるのです。
私たちは、霊の父のみもとに帰ることを知っています。私たちの魂は、「霊の父」を知り、私たちの魂がどこへ行くのかを知っているのです。