ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒十八章 聖書のみことばによってイエスがキリストであることを証明

 

 「アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

 この人(アポロ)は、主の道の教え(十字架につけられたナザレのイエスが、世の罪を取り除く神の子羊であって、聖書に書いてあるとおりに神が遣わされたキリストであるという教え)を受け、霊に燃えて(使命感をもって熱心に)、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマ(悔い改めの水のバプテスマ)しか知らなかった。(アポロは、イエスのことの正確な知識を持っていました。しかし、聖霊のバプテスマを受けておらず、復活のキリストについての知識を持っていなかったようです。主の道(神がイスラエルに遣わされたキリストは、十字架にかかられた神の子羊ナザレのイエス)の正確な知識を持っていたアポロですが、神の道(キリストの復活と聖霊のバプテスマと永遠のいのち)については知識がなかったようです)

 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼(アポロ)を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

 そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこ(アカヤ)の弟子たちに、彼(私たちの主イエス・キリストを信じている兄弟アポロ)を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼(アポロ)はそこ(アカヤ)に着くと、すでに恵みによって(キリスト)信者になっていた人たちを大いに助けた。(聖書に通じているアポロは、イエスを聖書のみことばの裏付けによって証し、イエスのことを正確に語り、教えたので、聖書の知識が乏しいままイエス・キリストを信じたユダヤ人たちに確信を持たせ、大いに助けることとなりました)

 彼(アポロ)は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」(使徒18:24-28)

 

 バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で教えを宣べて言いました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

 聖書に通じているアポロは、イザヤ書40:3のみことばを思い起こしたことでしょう。

 「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主(キリスト)の通られる道を真っすぐにせよ。』」

 

 ヨハネは、自分はキリストではない。自分はユダヤ人たちが悔い改めるために、水のバプテスマを授けているが、自分のあとから来られる方(キリスト)は、自分よりもさらに力のある方だ、と言っていました。

 

 バプテスマのヨハネの時代、まだ、新約聖書はありません。ユダヤ人の聖書(旧約聖書)があるだけです。

 聖書(旧約聖書)に通じているアポロは、旧約聖書の預言の成就として、イエス・キリストを信じました。

 

 おそらく、様々な預言の成就をイエスの上に見たことでしょう。

 

 イエスはろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、叫びました。

 「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(イスラエルの神に遣わされたキリストに)ホサナ。いと高き所に。(イスラエルにキリストをお遣わしくださった天の御座におられる全能の神、父祖アブラハムの神に)」(マタイ21:9)

 

 ゼカリヤ9:9の預言が、イエスの上に成就しました。

 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

 見よ。あなたの王(ユダヤ人の王)があなたのところに来られる。

 この方(イスラエルを救う方)は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

 イエスの上には、イエスが水から上がられた時に天から鳩のように下られた聖霊が留まっておられました。バプテスマのヨハネは、聖霊が天から下ってイエスの上に留まられたのを霊の目で見ました。

 

 バプテスマのヨハネは、水でバプテスマを授けさせるために自分を遣わされた方(イスラエルの神)に言われていました。

 「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのがあなた(ヨハネ)に見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方(イスラエルの神からキリストの油を注がれたダビデの子)である。』(ヨハネ1:33)

 

 そして、バプテスマのヨハネは見たのです。それで、ナザレのイエスが神の子であると証言しました。神に召され、キリストの前に遣わされたバプテスマのヨハネは、天から下られた聖霊を目撃した者であり、ナザレのイエスが聖霊のバプテスマを授けるキリストであることを証言する者でした。

 

 ナザレのイエスは、病人を癒し、悪霊を追い出し、心の傷ついた者を癒し、良い知らせ(ユダヤ人たちが「私たちの神」と呼んでいる「イエスの父」について、そして、天の御国と永遠のいのちのこと)を伝えられました。

 

 聖書のみことばは、イエスの上に成就しました。

 「主は心の打ち砕かれた者を癒し彼らの傷を包む。」(詩篇147:3)

 

 イエスの行なわれたみわざは、イザヤ61:1-3の預言を思い起こさせます。

 「主なる神の霊(聖霊)がわたしに臨んだ。これは主がわたしに(キリストの)油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしを遣わして心の痛める者を癒し、捕われ人に放免を告げ、(罪に)縛られている者に解放(罪の赦し)を告げ、主の恵みの年(ユダヤ人たちの救いの時)とわれわれの報復の日(イスラエルの敵の滅び)とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰(嘆き)にかえて冠(誉れ)を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、賛美の衣を与えさせるためである。」

 

 バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と証言したナザレのイエスは、十字架につけられました。

 

 「兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。

 そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』」(ヨハネ19:23-24)

 

 こうして、詩篇22:18のみことばは、イエスの上に成就しました。

 「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」

 

 また、詩篇34:20のみことばも、イエスの上に成就しました。

 「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」

 

 兵士たちは、十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折って、十字架から降ろしました。

 「しかし、イエスのところに来ると、イエスはすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。

 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:33,34)

 

 神は、終わりの時代の人たちへのしるしとされました。

 復活のキリストが、再び天から来られます。

 「見よ、彼(キリスト)が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼(再臨のキリスト)ゆえに嘆く。(十字架につけたナザレのイエスが、永遠に生きるメシアであったことを、その時、はっきりと知るのです。そして、十字架のイエスが神の遣わされたキリストであることを信じないで、死んだイエスのわき腹を槍で突き刺した者たち(子孫たちのことか)は真理に背き、神を信じなかった自分たちの罪を悟って、嘆くのです)」(黙示録1:7)

 

 アポロは、バプテスマのヨハネの宣教により、悔い改めて水のバプテスマを受け、また、聖書のみことばの裏付けによって、イエスがキリストであることを信じたのでしょう。

 

 イザヤ53章は、ナザレのイエス、すなわち、神の子羊イエス・キリストのことを預言していたのです。

 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼(ナザレのイエス)がわたしの民(イスラエル)のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(一度も罪を犯さなかった神の御子イエス・キリストは、罪人の代わりに打たれて死者の国に入れられた)

 彼(救い主であるキリスト)の墓は悪者ども(希望のない死者たち)とともに設けられ、彼は富む者(高ぶる者)とともに葬られた。(すなわち、罪ある者として死なれた)

 彼(神の子羊イエス)は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(キリストはいつも真理を語り、神御自身を証していたのに)」(イザヤ53:7-9)

 

 ユダヤ人たちにとって、旧約聖書の裏付けだけで十分です。

 聖書を知るユダヤ人たちは、聖書に書かれたことが、十字架につけられたナザレのイエスの上に成就したことを認めるとき、ナザレのイエスが、神に遣わされたキリストであることを悟るのです。

 

 アポロは、聖書(旧約聖書の律法と詩篇と預言)によって、みことばが、ことごとくイエスの上に成就したことを知らせて、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然と(すなわち、ユダヤの会堂で)ユダヤ人たちを論破しました。(議論によって、ユダヤ人たちの主張の矛盾点を指摘し、彼らの聖書理解の不足を正して、聖書のみことばにより、真理を明らかにしました)

 

 聖書に通じていたアポロは、聖書の預言はイエスのことを書いていた、ということを明確にして、イエスがキリストであることを証明したのです。

 

 聖霊のバプテスマを受けていなかったアポロは、聖書のみことばによって、主の道の教え(イエスがキリストであること)を受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、教えていました。

 しかし、プリスキラとアクラによって、神の道をもっと正確に知ったアポロは、力強く、公然とユダヤ人たちを論破する者となりました。

 

 聖書に通じていたアポロは、聖書によってイエス・キリストを伝えました。

 神は、それぞれの人の特質を用いて主の働きをゆだねられています。

 絵を描く人は絵によって、また、漫画を描く人は漫画により、音楽をする人は音楽により、手芸、絵手紙、喫茶などの店、文章、掃除、製造、農業、趣味や趣味の集い、ボランティア、あらゆる場所に、神は福音の機会を備えておられるようです。

 

 キリストを伝えるのは、その人の生活の中にあるのです。遠く離れてあるものではありません。ことばで伝えなくても、信仰の根にあるひとりひとりの生き様によって、生ける神のいのちが流れ、ほかの人のいのちとなったらいいですね。