「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(箴言15:15)
リビングバイブルの訳ではこうなります。
「気が重いと何もかも悪く見え、気分がいいと何もかもよく見えます。」
悩む人は、気が重いのを通り越している状態のようです。なぜならば、毎日が不吉の日に思うくらいですから。
夜寝て、朝起きても、心は沈んだままです。新しい一日を迎えたのに、心は古いまま、過去を書き換えることができません。かえって、つらい心に痛みと苦しみと嘆きとを積み重ねている毎日なのです。昨日よりも今日、今日よりも明日、重荷はもっと重くなります。
日を追うごとに、心はやつれ、目には光がありません。まるで、窓もともしびもない鍵を掛けられた牢獄の中にうずくまっているようです。
食欲はなく、思考は暗闇をさまよっています。
日々の生活を送っているはずなのに、一瞬一瞬の過去が幻のようです。生きているはずなのに、死んでいるようです。しかし、苦しい、つらい、不安や恐れ、孤独の感情に捕えられるとき、今、生きていることを気づかせてくれます。
そのような状況が、人生に一度や二度は訪れることでしょう。しかし、何かのきっかけで抜け出すことが多いものです。
しかし、この状況に落ち込むと、本当に、心には不吉なことしか浮かんで来ません。楽しみにも希望にも、心は無反応です。ほかの人たちの楽しみや喜びに心はしらけ、孤独で泣きたくなります。
涙が出るうちはまだよいです。涙も出なくなると、心はひからびていきます。
悩む者には、毎日が不吉な日なのです。
しかし、心に楽しみのある人には、朗らかな心があります。気分がいいときは、何もかもよく見えるのです。心にゆとりがあるからです。
心に楽しみのある人は、毎日に発見と喜びがあり、宴会(パーティー)の時のように心が弾んでいます。
「楽しければ顔も輝き、悲しければ顔もくもります。」(箴言15:13)
心に喜びがあれば顔色をよくし、心に憂いがあれば気はふさぐのです。
私たちは、寛容な心を育てる必要があります。
寛容とは、人を受け入れるとか、状況を受け入れる、といった努力の事ではありません。
「主にある寛容」が、私たちを支えてくれるのです。
それは、「この状況を許されたのは神である」という信仰のことです。
私のせいか?あの人のせいか?だれのせいか?と気をもむと、悩みの日々に突入して、毎日が不吉であると恐れなければなりません。
そして、その思いに捕えられると、自己否定と恨みと怒りと憎しみの虚像に追いかけられる恐怖の体験が待っています。
神は、天にも地にもすべてに満ち満ちたお方です。神が知らずにおられることは何もないのです。ひとりひとりの悩みの源をも御存じです。
理由なく起こることは一つもないと考えます。すべての事柄には、意味があるようです。神が許されていないことは起こる事がないからです。神を知る人の場合であれば、尚更です。
神は、御自分の子どもに関心をお持ちです。
神の子どもにふさわしくするために、環境や人を用いて、御手をいれられます。
ある時は肉の性質を砕くため、ある時は訓練を与えて懲らしめるため、ある時は守るため、ある時は祝福を受ける者として建て上げるため。
「霊の父(天の神)は、私たちの益のため、私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:9-11)
神に鍛えられた人は、そこ(訓練)に神の愛があることを悟って、より深く神を愛し、悩みの牢獄にはいることはありません。神への信頼が、その人のうちに築かれるからです。
人は、神の訓練により、広い地へと導かれて、心に自由を得ます。神への信頼が増し加わるからです。
神は、訓練により神への信頼を増し加えた人に、平安な義の実を結ばせられます。
私たちは、神の一部分しか知りません。また、自分に都合の良い状況の中では神に感謝し神をほめたたえますが、自分に都合の悪い状況の中ではつぶやき恨み言を言います。
しかし、人にとって都合の良い時も、良くない時も、神が私たちを愛する愛は変わらないのです。神は不変です。
自分自身の信仰が不安定だから、神が愛だと見えたり、神の愛がわからなくなったりするのです。
神は、私たちの弱さも御存じです。
弱い器であっても、信仰を持ち続けて永遠のいのちを受け、天の御国にはいるようにと、真理の御霊を「助け主」として遣わしてくださっているのです。
人は自分自身の力では、霊の父に服従することはできません。肉の父にさえ服従したことのない私たちです。ましてや、目に見えない聖なる霊にどうして聞き従うことなどできるでしょうか。
今日は神を信じていても、明日は疑うような当てにならない者なのです。
神が許しておられない事は、何事も起こらない。神がすべてを許しておられる。
この事を念頭に置きましょう。そして、自分の力を神の前に置いて、自分の悩みも神の前に置いて、神に打ち明け、神にゆだねましょう。
「ゆだねる」ということは、力のない弱い者がすることではありません。
肉に死んで、そこに神の存在のあることを受けとめて、御霊に助けを求め、霊の父への信頼に立つ信仰のあかしなのです。
霊の父と私たちとの仲介者であられる、神の御子イエス・キリストは言われます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。(イエス・キリストの御名を呼び求めなさい)
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
神は私たちに「幸せであれ。」と願っておられます。
「心安らかに、朗らかであれ。」と願い、イエスがその重荷を降ろさせ、また、魂に解放と安らぎを与えてくださるのです。
ダビデは、多くの苦難を通して、真の羊飼いであられる主を知りました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:1-3)
神は、神に信頼する者を決して裏切られません。忍耐して待ち望むならば、神は私たちのうちに、霊の父への信頼と忍耐を培い、信仰を育ててくださる方です。
そして、神がともにおられることがわかり、また、生けるまことの神、主が、勝利へと導いておられるまことの羊飼いであることがわかるのです。
すべてのことは、私たちが幸せであるため、私たちのためなのです。
その時はわからなくても、後にわかる時が来ます。
ダビデが告白したことは真実です。
「私のいのちの日の限り、(神の)慈しみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(詩篇23;6)
私たちの後に、神の慈しみと恵みが追って来るというのです。私たちの前に、神の慈しみと恵みがあって、私たちがそれを追いかけているのではありません。
神の慈しみと恵みの方が、羊飼いに信頼して朗らかな霊とともにある私たちを追いかけて来て、私たちを満たしてくださるのです。
こうして、私たちは、霊の父、魂の父に服従して生きることが、真に安全な道、心安らかで確かな歩みであることを知るのです。
嘆きも悲しみも、神の霊ではありません。嘆きや悲しみの憂いの霊に、悪しき霊がつきまといます。
楽しみと喜び、朗らかな霊は、神の御霊を呼び寄せます。
朗らかであってください。
朗らかな霊に、楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去ります。
このことは、いのちの原則です。
イエス・キリストの御名を知らない人でも、霊の父を知らない人でも、真理の御霊を受けていない人でも、朗らかな霊は、いのちの神の前に存在しているのです。
そして、朗らかな霊のあるところに、聖なる御霊のきよめが起こります。
きよめられることが先ではなく、朗らかな霊のところに、神の霊が来て、きよいことを好む者、そして、平安の伴う喜びを得る者としてくださり、神のみわざを体験してゆくのでしょう。