イエス・キリストがイスラエルのベツレヘムに生まれるおよそ五百年前に、インドとネパールの国境付近にあったルンビニーという小国にガウダマ・シッダールタが生まれました。お釈迦さんです。釈尊とも、仏陀とも呼ばれている人です。
仏教の開祖と言われている仏陀ですが、おそらく、釈尊自身は宗教の開祖になるつもりはなかったと思います。
王子として生まれた釈尊は、民の間を巡って、病人の痛み、老いた年寄りたちのあわれ、死にゆく者の嘆き、遺された者の悲しみを見て、生きることの苦しみを目の当たりにしました。そして、これがすべての人の通る道であることに気づいたのです。
この生老病死の苦しみに疑問を抱いた王子は、自分自身の豊かな暮らしを捨てて、人類そのものの道理を探ろうと、出家しました。この疑問は釈尊の中で膨れ上がり、解決の無いままでは生活できないほどに、心がとらえられたのでしょう。
あらゆる修行をしていきますが、修行の中に答えを見いだすことはありませんでした。そして、活動をやめて、菩提樹の下で瞑想しているときに、釈尊は悟ったのです。
生老病死は、すべての人間の営みであり、だれも変えることのできない摂理であること、そして、その原因は自分自身の中にあることを悟ったのです。
生老病死の原因は、人の中にある、しかも、人にはそれを覆すことはできない、ということに辿り着きました。
自分の内面を見つめても、良いものは出て来ません。
環境の中に自分を置き、環境の一部として自分自身を溶け込ませると、目に見えないいのちが見えて来ました。
自分だと思っている自分が、もはや自分ではないことを悟ったのです。すべては「無」なのです。すべてのものは存在しない、無いものだ、という意味ではなく、有ると思っていたものが無いもののように消えて行き、無いと思っていたものが有るものとして現われる、何とも不思議な悠久の時の感覚を得たのでした。
釈尊は、人を悩ます煩悩のことを人々に教えました。煩悩の存在のあることを人々は納得しました。しかし、煩悩の解決はどうしたらよいのでしょうか。
煩悩から解脱(げだつ)しなければ、真理は見えて来ません。真理とは、普遍で不変なもの、すべての人を一つと考えて、人類が一つとなっても、そこにある真理です。
弟子たちは、仏陀の説く仏法に耳を傾けます。
煩悩から解脱した仏にならなければ、その光は見えて来ないのです。煩悩から完全に開放されるのは、肉体を脱いだとき、すなわち、死ぬときでしょうか。
仏陀の中には光がありました。それは、自分自身の中にはない、という事を悟った光でした。
聖書を知らない仏陀は、人の成り立ちを知りません。アダムもエバも知りません。神も、神の創造のことも、人のいのちは神のいのちの息であることも、最初の人アダムの犯した罪のことも、罪によって神に寿命が定められたことも、罪の報酬が「死」であることも、また、神の御救いの御計画のことも知らない仏陀です。
いのちが自分の外にも満ち満ちていて、目に見えない生かす力の存在があってその目に見えないものの意思が働いていることを悟り、人はその摂理の中に置かれ生かされていることを悟ったのでしょう。
仏陀は、自分が涅槃の境地に達したとは思っていなかったようです。仏陀は、その目に見えないけれども確かに存在される、すべてのものの存在の根源的存在のあるのを認め、その有難き存在を全宇宙を覆う「阿弥陀」と捉えたのではないでしょうか。
釈尊を悟りを開いた仏であるとしたのは、後の弟子たちによるのだと思います。仏陀は、みずから悟りを実践したのではなく、悟りそのものの阿弥陀により頼んだように思います。
仏陀は、弟子たちに言っています。
「私が悟った悟りは、私が知る以前から存在している摂理であり、私はその存在を悟ったにすぎない。」
仏陀は、自分の事を開祖と思っていなかったと思います。仏陀は、もともとあった摂理を捉えて、その存在をあかしした人だったのです。
仏陀は、真理の存在を悟りました。そして、それをとらえるため、真理に到達し真理の中にはいるために心を砕いた人だと思います。
仏陀は、弟子たちにある重大な言葉を遺しました。
「私は悟りを開いたが(普遍の真理の存在を悟ったが、その真理の中にはいって、悟りのまま煩悩の解脱する生き方にしたがって生きるには至っていない)、私(仏陀)の後に、私の開いた悟り(仏法)を生き様とし、悟りを実践する者、真理そのものをいのちとして生きる者が現われる。私の後に「明けの明星」が現われる。」
「明けの明星の出現」を悟った仏陀は、神の用意された御救いの存在を知るに至ったのです。仏陀には、神と呼ばれる永遠の存在は理解できません。「神」の知識がないからです。
しかし、天地万物を創造し、人を造り、神のひとり子キリストを世に遣わされる全能の神は、五百年前に生きていた異国の仏陀に、人間に隠された真理を知らせておられたのです。
神は、御自分のために造られたユダヤ民族には、あらゆる世代、また、さまざまな預言者たちを通して、キリスト(救世主)を遣わすことを知らせておられました。
しかし、神の祭司の国民イスラエル以外の民には、真理を伏せておられました。
神は、イスラエルとともにおられました。神の民に御自身を現わしておられました。神の啓示、真理の光は、イスラエルとともにあったのです。
神は、イスラエルに神のことばをゆだねられました。「聖書」はユダヤ人たちによって書かれました。神は、ユダヤ民族にゆだねた「聖書」の中に、真理を置いておられます。
真理は、イスラエルとともにありました。しかし、聖書に隠された真理は、いのちの神に繋がらなければ、理解できません。神の啓示の光がなければ、聖書の中に真理を見い出すことはできません。
聖書の中に真理があるのに、神の霊によらなければ、真理を知ることはできません。そこにあるのに、見えないのです。聖書は肉の目で見ても理解できません。霊の目で見なければわからないのです。
頑なな心、邪な心、高い心の人、愛のない人には、真理を知ることができません。私的解釈して、真理を捻じ曲げるのです。
天から「真理」が下って来ました。
仏陀が「私の後から来られる明けの明星」と呼んだ方です。真理(神のひとり子)が、肉体を持つ人の子となって、イスラエルに来られたのです。
イエスは、ベツレヘムで生まれました。イエスは「ダビデの子」と呼ばれるキリストです。
星を見た東方の賢者たちは、「ユダヤ人の王」が生まれたことを知りました。
彼らは、生老病死の悩みを解決し、まことのいのち(いのちの根源)と一つとなってすべてのものが調和し、健やかに存在し続ける涅槃(涅槃)への道を開く「明けの明星」を待ち望んでいたのでしょう。
彼らは、東方からやって来て、ベツレヘムで幼子イエスを拝みました。
彼らは、「ユダヤ人の王」となられる方が、「明けの明星」(新しい世を開く希望の星)であることを知っていたようです。
仏陀が言ったように、仏陀の後に、「明けの明星」が現われたのでした。それは、仏陀から五百年後に起こりました。悠久の時を知る賢者たちは、あきらめないで待ち望み、そして、その誕生を知らせる星を見、星に導かれて「ユダヤ人の王」としてお生まれになった「神の子羊イエス」を礼拝したのでした。
ユダヤ人たちは、「聖書」を信じ、聖書の預言によりユダヤ人から出る救いを待ち望んでいました。ユダヤ人たちは、「キリスト」を待ち望んでいたのです。
東方の賢者たちは、聖書を知りません。神の預言者たちの預言も、神の存在も知りません。しかし、明けの明星を知らせる星によって、新しい世、涅槃(ねはん)の希望を実現してくださる「ユダヤ人の王」の誕生を知ったのでした。
イエスは、ユダヤ人たちに言われました。
「あなたがた(聖書の民)は、聖書の中に永遠のいのち(神の御救い)があると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(ナザレのイエスとしてイスラエルに遣わされた神のひとり子)について証言しているのです。
それなのに、あなたがた(ユダヤ人たち)は、(永遠の)いのちを得るために私(神の御子イエス・キリスト)のもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39,40)
聖書を知らない東方の賢者たちは、聖書の中ではなく、イスラエルの中に、「ユダヤ人の王」を捜しました。そして、ベツレヘムで、幼子イエスを見い出したのでした。
終わりの時代、聖書を知らない民が、救い主キリストを拝む時が来ます。
神が終わりの時に用意された「明けの明星」が現われるからです。
神は、「明けの明星」を捜して拝んだ、東方の賢者たちの信仰と祈りに守られて、煩悩に満ちた世界、罪のうごめく闇の世が終わり、煩悩から解放された新しい世界が開かれることに希望を持ち真剣に真理を求め続けている人「イスラエルのメシア」を立てられるのではないでしょうか。
キリスト教の教えには心頑なだった人たちも、「イスラエルのメシア」の話には耳を傾けるでしょう。
人々は彼がキリスト教の教え、聖書の神(ユダヤ民族の神)についてではなく、真理を語っている事を知るからです。
聖書を知る人も知らない人も、聖書を信じる人も信じない人も、「イスラエルのメシア」の語ることばが、いのちの神のこと、真理について語っていることを知るでしょう。
キリスト教ではなく、ユダヤ教でもなく、神道や仏教の教えでもなく、宗教ではない「真理」、すべての宗教、すべての神々、すべての真理と言われるものの上に立つ「まことの真理」のことばを聞くのです。
多くの日本人は、宗教ではない真理のことばに耳を傾け、いのちの神を信じて真理を知り、いのちの神の用意された唯一の御救いの道へと導かれるのでしょう。
真理を受け取った人たちは、永遠のいのちを得させてくださる「真理の御霊」に聞き従うことでしょう。
真理のことばを信じ、真理を受け取る彼らは、目に見えない「生かす御霊」を信じ、生かす御霊によっていのちの道にはいるのです。