ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

分散した人類はひとつのものによって生かされている

 

 神のことばにそむいて悪魔の言葉と結びついたアダムとエバは、エデンの園から追放されました。

 そして、神の子ら(おそらく天から追放された堕天使たち)が暮らす地上に置かれた人は神の子らと混血し、地上に人の悪がはびこりました。

 そして、その心に思い計ることがみな、いつも悪い事ばかりであるのを御覧になった神(全能の神、主)は、心を痛め仰せられました。

 

 「わたしが創造した人を地の面からぬぐい去ろう。人も獣もはうものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる。」(創世記6:7)

 

 神は、神を恐れ神に聞き従う正しい人ノアとノアの家族を残し、地上を大水で洗い流されました。

 ノアとノアの家族は、四十日四十夜降り続ける雨の中、箱舟に乗って守られました。雨が止み、地が乾ききると、神のことばにより、箱舟の中のものはみな箱舟から出て来てました。

 

 神は、箱舟の中に入れていのちを守った人と家畜や獣とはうもの、鳥により、地上の営みを再スタートされました。

 

 暴虐に満ちた世を大水で滅ぼされた神は、ノアの子ハムの子孫二ムロデが人々を誘導して平地のあるシヌアルの地(バビロン)に定住し、天に届く塔を建てて、力あるものになろうとするのを御覧になりました。

 

 神が人を全地に散らして力あるものとならないようにされる、ということを二ムロデは知っていたようです。

 神は、神を恐れ神の主権のもとにへりくだって生きる人の群れを御覧になりたかったことでしょう。

 

 しかし、二ムロデは神に主権を持ってもらいたくない人でした。二ムロデは地上で最初の権力者となりました。

 人の知恵と力を結集すれば、神に頼らなくても、人が理想とする暮らしを実現することができる、と考えたのかも知れません。

 権力を誇る者は、ほかの権力者を欲しがりません。神に主権者になってもらいたくありません。自分が一番高い者となりたいのです。

 

 ただおひとりの「主」、すなわち、天地万物を造られた全能の神、主を「主」と呼ばず、「神」と呼び、人のつくった偶像の神々と等しいものと捉える思想は、この時からすでにあったようです。

 

 箱舟にはいって、大水から救われた人の中に、二ムロデはいません。ハムの腰の中にいたのです。

 二ムロデは、大水で押し流された人たちの暴虐の心(神を神としない心)とは異なる、神に敵対する心を持っていたようです。神のように高い者になりたいと思う心です。神の権威に逆らう心です。

 

 二ムロデが、頂が天に届く塔を建て始めると、主は仰せられました。

 「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、止められることはない。(人々が一丸となるならば、すべての人の心は神から離れてしまう)

 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創世記11:6,7)

 

 一つだった人々のことばは、神の霊によって、幾つもの言語とされました。言語が分かれることで、人々の意思疎通はできなくなりました。

 主は、同じ言語の者たちを一つの群れとして、人々をシヌアルの地から地の全面に散らされたので、人々はその町を建てるのをやめました。

 人々は、二ムロデが建て始めた町を完成することはできませんでした。この町は、主が人々の言語を混乱させて、互いに言語が通じなくなったことで、混乱を意味する「バベル」と呼ばれました。

 

 主が全地の一つのことばをそこで混乱させ、多種の言語に分けて、人々をそこから地の全面に散らされたのでした。

 

 「神はひとりの人(アダム)からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:26-28)

 

 神は、心が神から離れた人類に、神を探り求めさせ、神を見いださせるために、人類の言語を分けられて、それぞれの決められた時代の流動(神は、それぞれの時代における国の栄華、衰退、滅亡、また、ある国の復興を定めておられる)の中で、人々の思いを揺さぶり、また、人種や住まいの境界を定められている(人種も国もそれぞれ置かれる場所もあらかじめ定められている)、と聖書にあります。

 

 人々は、異なる国や人種や言語によって、アイデンティティーを求めてルーツを探り、神に至ることもあるのでしょう。

 

 「神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17:25)

 

 夜空の星々に悠久の時を見、憧れを抱きます。

 夜空の月の光に、夜のあかりを得ます。

 太陽の光と雨を降らせる雲によって作物の収穫を得ます。

 

 日本人は、日本で見る太陽と月と星々を見ます。

 アメリカ人は、アメリカで見る太陽と月と星々を見ます。

 すべての民族、すべての国々、すべての言語の人々は、置かれた場所で、太陽を見、月を見、星々を見、風を感じます。

 

 しかし、太陽も、月も、一つしかありません。風は、国々を行き巡ります。

 人類は、一つの太陽から昼の光を得、一つの月から夜のあかりを得ています。

 そして、おひとりの神(生けるまことの神、主)のいのちの息によって生かされているのです。

 

 「私たち(人類)は、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)

 

 人は、神を知らず、また、神を探り求めることもありません。

 しかし、他民族との摩擦の中で、自分の民族のことに思いを至らせ、また、自分自身の存在の意味を探り求めるならば、私たちを生かしておられる神を見いだすこともあるのです。

 

 ひとりの人(アダム)の創造から始まった人類を、様々な言語、様々な民族、様々な国に分けられたのは、主であり、神なのです。

 

 それは、人々にまことの神(自分が生きて、動き、存在する、その目的と原因を明らかにし真理を教えてくださる全能の神、主)を求めさせるためです。

 

 人々は、人類にとって未知なる世界、宇宙に、その原因を求めます。

 しかし、その原因は、宇宙ではなく、真理にあります。

 真理は、宇宙を造られたおひとりの神(絶対主権者)です。

 

 確かに、万物の存在の目的であり、また原因であられる、目に見えない大いなる方(全能の神、主。すなわち、「わたしはある」と仰せられる方、何ものにもよらず、みずから存在し、万物を造られて御自身の秩序と調和によって万物を保っておられる方)がおられ、万物を生かしておられるのです。