ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリスト教につまずく日本人へ

 

 日本人の律儀さにより、キリスト教会の中には、熱心に教会に仕え、心配りをする人たちがおられます。

 クリスチャンとして新しい生き方を始め聖書の学びが進むと、日本古来からの伝統や文化から離れ、地域における社会生活は薄れていくようです。

 

 日本人でありながら、日本の古き良きものの価値が意識に上らなくなって行きます。日本人の魂に宿る、日本人古来の生き方が、神の御国に入ることの妨げのように思ってしまいます。

 

 自然環境の中に身を置く時に味わう魂の安らぎや、静けさの中の魂の解放と喜びは、聖書的ではありません。自然崇拝のアミュニズムではないでしょうか。これは、宗教ではありません。ちゃんとした神が存在しない精神的世界であり、日本古来の神道の影響はきよめられなくてはいけない、と警戒します。

 キリストから出たものでないものは、排除しなければなりません。

 

 イエスは言われました。

 「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父(天の神)がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 しかし、わたし(イエス)はあなたがたに言います。(イスラエル王国を確立し)栄華を窮めた(イスラエルの王)ソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした。(ソロモン王のきらびやかな衣装よりも、神が造られた野のゆりの美しさの方がまさっています。それは、ゆり自体が持つ美しさだからです。きらびやかな衣装をまとっていても、魂の美しさによって生きていないならば、神の目には、着飾っていないのも同然です。)

 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださる(一つひとつのいのちの輝きを与えておられる)のだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(あなたがたは神に覚えられている者ではありませんか)

 そういうわけだから、何を食べるか、などと言って心配するのはやめなさい。

 こういうものはみな、異邦人(神の契約を持たず、神を知らない人々)が切に求めているものなのです。しかし、(天の神が遣わされた神の御子イエスを受け入れることで、私たちを造られた魂の父と和解して、神に覚えられている)あなたがたの天の父(天の神)は、それ(食物や着物)がみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。(いのちを与え生かしてくださる神を生活の中心に置いて生きなさい)そうすれば、それに加えて、これらのもの(あなたがたに必要なもの)はすべて与えられます。

 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(イエスの与えられる信仰は、生かしてくださる神に信頼し、目に見えないけれども確かにおられる霊であられる神にゆだねて歩む信仰です)」(マタイ6:26-34)

 

 聖書をゆだねられたユダヤ人たちは、聖書の文字にとらわれました。律法を守るか守らないか、律法を守るためにはどうしたらよいのか。自分たちの知恵を絞って、律法を守ることを完成させようとします。

 彼らの信仰は、生けるまことの神から心が離れ、自分たちに目が向けられます。聖書に目を向けているつもりでも、そこには生ける神は不在です。神に思いを向けているつもりでも、霊であられる神のことがわかりません。目が塞がれているのです。

 

 イエスは、ユダヤ人の指導者、パリサイ人のニコデモに言われました。

 「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

 肉によって生まれた者は肉です。(自分自身の知覚によって得た信仰は肉に属するものであって、聖書を覚えても天の御国にはいることはできません)御霊によって生まれた者は霊です。(天は霊の存在であって、天の御国にはいる信仰は、霊的なものなのです)

 あなたがた(律法に厳格なユダヤ人であっても)新しく生まれなければならない、とわたし(イエス)が言ったことを不思議に思ってはなりません。(律法やイエスの教えや人の努力がいのちを得させるのではなく、いのちを得させるものは御霊です。御霊によって生まれ、御霊によって教えられる者、すなわち、肉ではなく霊によって生きる者が天の御国にはいるのです。天の御国にはいるためには、新しく生まれなければならないのです)

 風はその思いのまま吹き、あなた(人)はその音(風の音)を聞くが、それ(風)がどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。(御霊によって生まれる者もまた、御霊がどこから来られたのか、見る事はできないのです)」(ヨハネ3:5-8)

 

 神の民のひとりとして、神の国を待ち望んでいたニコデモには、理解できない内容でした。ユダヤ人の教師のニコデモが、聖書から学んでいたものとは違う、新しい教えでした。

 天の父をよく知る神の御子イエスの教えは、生きておられる神のあかしでした。

 

 イエスは、サマリヤの女に告げられました。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23,24)

 

 律法を守ることを義としているユダヤ人たちから、仲間ではないとみなされていたサマリヤ人の女は、いっさいのことを知らせてくださるはずのメシアを待ち望んでいました。キリストと呼ばれるメシアには、真理があります。彼女は、ユダヤ人たちの教えの中に真理があるとは思っていなかったようです。キリストが真理を明らかにしてくださるはずです。

 

 目の前にいるユダヤ人のイエスは、サマリヤの女に霊のことばを語られました。人が教えるものではなく、人間が聞いたことのない真理です。神は霊であることを教え、神は霊だから私たちも霊によって神を知り、霊とまことによって神を礼拝しなければならない、と言うのです。聖書のみことばが神御自身と捉える、ユダヤ人たちの教えのようではありません。律法の中に閉じ込め、律法の奴隷とするユダヤ人たちの教えとは異なります。

 

 束縛からの解放を得させるような新しい教えです。

 サマリヤ人の女は喜びました。目の前のイエスは、難しい事を言っているのではありません。イエスは、女のしたことを全部言い当てる不思議な力があります。この力こそ、まさしく、神の御力なのではないでしょうか。

 サマリヤの女は、イエスに、目に見えない神を見たのでした。

 イエスのことばは、裁くのでもなく、霊を縛り付けるのでもありません。霊が解放され、喜びに満たされ、魂には平安があるのです。

 

 律法を知るユダヤ人は、伝統的なしきたりやユダヤ人が大切にしている律法の教えではない、イエスの新しい教えを疑います。

 しかし、律法の下にいない異邦人や、罪人の取税人や遊女や病人や悪霊につかれた人たちは、イエスのことばを霊でとらえて、神のみわざを見、イエスを神から出た方だと信じました。

 

 ユダヤ民族の父祖アブラハムは、霊によって神と交わっていました。アブラハムには、律法(聖書)はありませんでした。

 アブラハムもモーセもダビデもエリヤも、自分自身の霊で霊なる神と交わっていたのです。聖書を介さなくても、神との交わり、すなわち、霊の交わりを持っていたのです。

 

 日本人は、自然環境の中に働いておられる霊なる神の存在を知っていました。神が霊の存在であることを知っていたのです。

 真理を明らかにされた、すなわち、霊なる神をあかしされたイエスは、「父が真の礼拝者たちを求めている。」と言われました。

 真の礼拝者とは、神が霊であることを知って、霊とまことによって天の父(魂の父)を礼拝する人たちです。

 

 日本人の信仰は霊的なものです。偶像に向かって礼拝しているのではありません。山に海に川に樹木に岩に、火に水に、太陽に月に、自然にあるすべてのものに、霊なる存在(神)を意識しているのです。

 自然信仰とは違います。神として存在しておられる霊なる方を、心の中で感じながら拝んでいるのです。目には見えないけれども、触れてくださる神、神の臨在を味わうのです。

 

 日本人は、聖書を知らないけれども、天の父が求めておられる礼拝をしている民族なのではないでしょうか。

 ところが、キリスト教会にはいると、日本人の特性を失ってしまいます。霊が開かれている日本人は、息苦しくなって教会を出ます。自分自身の霊によって感じ、霊によって生きて来た日本人には、教会は何かに隷属する宗教のように感じるのです。規則があって、不自由な気がするのです。

 神は人を奴隷のように縛るでしょうか。神を霊によって感じ取る日本人は、霊の交わりが体験できない宗教に懐疑的なのです。

 

 日本人の魂の根底には、「お天道様が見ている」という、目に見えないものの存在を意識する部分があります。

 日本人の中には不思議な体験をしている人もいるのではないかと思います。そして、その体験は特別なものではなく、その人自身の生活の中で知っている経験であり、霊的な体験です。

 

 他の民族と比較して、日本人は霊が完全には塞がっていないように思います。眠っている状態です。

 

 これから、日本人の霊的覚醒とともに、日本人の中に、天の父(魂の父)が求めておられるような、霊とまことによって神を礼拝する人たちが大勢現われることでしょう。

 

 神は喜んで、真の礼拝者たちを永遠のいのちを得させるいのちの道へと導かれることでしょう。神は霊ですから、神を礼拝する日本人は、霊とまことによって礼拝しているのです。

 

 生けるまことの神である父をよく知る、神のひとり子イエスは言われました。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。

 父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23)

 

 神は、霊的な礼拝をする日本人を喜んでおられることでしょう。神の望みどおりの礼拝者は、日本の地にいるのです。

 聖書を知らない日本人ですが、神に愛され、神に求められている、真の礼拝者たちです。