「ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。『おまえたちがタボルで殺した人たちは、どこにいるのか。』すると彼らは答えた。『あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました。』
ギデオンは言った。『彼らは私の兄弟、私の母の息子たちだ。主は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしないのだが。』
そしてギデオンは自分の長男エテルに『立って、彼らを殺しなさい。』と言ったが、その若者は自分の剣を抜かなかった。彼(長男エテル)はまだ若かったので、恐ろしかったからである。
そこで、ゼバフとツァルムナは言った。『立って、あなた(ギデオン)が私たちに撃ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのですから。』すると、ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月の飾りを取った。」(士師記8:18-21)
同じ神を信じ、同じ神の道を歩んでいても、それぞれの人の勇気は異なります。
敵の攻撃に果敢に立ち向かう人もいれば、恐れ怯える人もいます。敵である悪魔の仕業を知る人もあれば、無頓着な人もいます。神の働きに立ち上がる人もいれば、加わらない人もいます。
パウロは言います。
「主イエスにあって、私(パウロ)が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。(人にはそれぞれの信仰があり、その信仰によって受け入れるもの、また拒絶するものがあるようです。しかし、同じ神を信じ、同じいのちの道を歩んでいるのです)」(ローマ14:14)
神の御子イエス・キリストは、七つの御霊の主であって、それぞれの信仰を認め、受け入れておられるようです。信仰は、こうであらねばならない、というものではないようです。
みながパウロのようになれるわけではありません。
何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
しかし、パウロは知っています。食べ物は、それ自体で汚れているものは何一つない、ということです。
ペテロは幻を見ました。
「天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。』という声が聞こえた。(それらのものは、神がユダヤ人の律法で食べることを禁止されていたものです)
しかしペテロは言った。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、(神が食べてはならないとお定めになった)きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』
すると、再び声があって、彼(ペテロ)にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。」(使徒10:11-16)
ペテロはこの幻によって、神が異邦人をもきよめ、神にきよめられた異邦人(無割礼の人たち)との交わりへと神が導かれる、ということを知らされました。
神と契約を結ぶ割礼の民イスラエルは、聖なる神の民、神に聖別された民族です。神は、律法により、無割礼の者(異邦人)との交際を禁じ、また、彼らとひとつになることを禁じられました。
神は、イスラエルをほかの民族と区別し、神の祭司の国民として育てておられました。この世の価値観が混じることを、神は禁じておられたのです。偶像の神々に仕える民との交流を禁じておられました。
神は、祭司の国民イスラエルに神の子羊イエス(神のひとり子キリスト)を遣わされると、ユダヤ人たちは、世の罪を取り除く罪の贖いの子羊をほふりました。
神の子羊イエスの死は、世の罪を取り除きました。
神の子羊イエスの血は、キリスト(神の御子イエス)を信じる人たちの罪を赦しました。
神の子羊イエス・キリストの復活は、キリストを信じる人たちに永遠のいのちを得させます。
キリストの贖いの血で、世の罪が取り除かれました。
罪を贖う神の子羊イエス・キリスト(救世主)の血は、キリストを信じる異邦人の罪を赦し、きよいものとします。
神が異邦人をきよめられました。きよいものとされた異邦人を、きよくない、汚れていると言ってはならない、とペテロは聞いたのです。
ユダヤの律法は、キリストを迎えて、新しい律法に書き替えられました。いのちの律法です。ほかの民族と聖別されるための律法は、キリストにおいて完成しました。
新しい律法は、神に義とされた者(神の御子イエス・キリストを信じて、神に義とされた者はすでにきよいのです)との契約であって、永遠のいのちを得させられて天の御国にはいるための律法です。
パウロは、新しい契約にはいった人たちに言います。
「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。(ユダヤ人と異邦人との区別はもはや必要ありません。キリストの血によってきよめられた者にとっては、すべてがきよいのです)
地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
もし、あなたがた(ユダヤ人たち)が信仰のない者(異邦人)に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
しかし、もしだれかが、『これは偶像にささげた肉です。』とあなたに言うなら、そう知らせた人の(弱い信仰を守る)ために、また(その知らせてくれた)人の良心のために、食べてはいけません。(自分自身は食べても食べなくても問題ないのですが、信仰の弱い人の信仰に影響を与えるならば、その弱い人のために自制するのがよい)」(コリント第一10:25-28)
パウロは、私たちを神に近づけるのは食物ではないことを知っています。
「食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
ただ、(しっかりとした信仰の)あなたがたのこの権利(律法に縛られない自由)が、(信仰の)弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
(イエスのことばの)知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。(信仰の根が張っていない信仰の弱い人が、神と偶像の神々との区別はないのだと思って、信仰の強い人の真似をして、ひ弱な信仰を失う危険があるのです)
その(信仰の)弱い人は、あなたの知識(火のバプテスマ〈試み〉をくぐり抜けて、偽りを見抜き、悪魔を打ち砕く力ある信仰)によって、(自分はそのような力も信仰もないのに、信仰の強い人の自由な在り方だけを真似して、霊を見分ける力も、悪しき霊に抵抗する力もないまま、悪しき霊にとらえられて信仰を失い)滅びることになるのです。
キリストはその(信仰の弱い)兄弟のためにも死んでくださったのです。
(信仰に立つ)あなたがたはこのように(信仰に立つことのできない弱い)兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心(信仰の弱い者は、消え入るような信仰しかないのです)を踏みにじる時、(彼らの罪を赦し天の御国に招いておられる)キリストに対して罪を犯しているのです。」(コリント第一8:8-12)
人には人それぞれの信仰があるようです。
聖霊のバプテスマを受けた人は、御霊によって試みの炉へと導かれます。火のバプテスマです。しかし、この試みによって、信仰を失ってしまう人もいます。
天の御国は、平面の世界ではなく、それぞれの信仰によって分別されるようです。みなが同じ信仰ではありません。みなが同じ試みに耐えられるのではありません。
御霊は一つであり、同じ一つの御霊によって、いのちを得るのですが、みなが同じではありません。
御霊の教会は、七つに分かれています。
これを、サッカーに置き換えてみると、
サッカー競技をするために、サッカー場を管理し提供する立場の人たち。
その働きを維持するためのスポンサーやサポーターたち。
サッカー選手たち。
サッカーチームのコーチや監督。
これらは、主催者側に属するグループです。
サッカーチームは、プロだけではなく、大学サッカー、高校や中学の部活、少年サッカーチームなど、様々な種類があります。選手の立場もいろいろです。
応援する側に立つ人たちもいます。
みずからもサッカー競技をして楽しみ、サッカーが好きな人たち。
サッカー試合会場に行き、観戦する人たち。
中継で観戦する人たち。
どのグループに属していても、みな、サッカーが好きなのです。それぞれ立場は違いますが、サッカーが好きなことにおいては一つです。
信仰の在り方も、様々です。そして、それぞれの信仰に応じて、神を信じています。
信仰は一つ、御霊は一つですが、一色ではありません。
それぞれ、美しいグラデーションとなって、神の栄光を彩っているのです。
共通なのは、同じ神を信じていること。そして、天地万物を造られた生けるまことの神に出会い、神に愛されていることを知ったこと。また、同じ神に御救いの希望を持ち感謝をしていることです。
ほかの人と比較するのではなく、それぞれの信仰によって神に感謝し、神をたたえましょう。天においては、一つなのですから。