ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本人が目覚めていのちを生きる

 

 日本の若者の中で、農業に関心を持つ人たちが起こっています。

 都会の喧騒を離れ、静かな農村や山の中に移住して、自給自足の生活をする若者もいるようです。また、同じ志を持つ人々が共同生活する村も起こっているようです。

 

 パンデミックは、日本人の精神性を縛って来た文明の支配の縄目を解くきっかけとなったようです。

 家族が一番から仕事が一番となっていた日本人の魂は渇いていました。精神性を重んじる文化の中で成長している日本人なのに、お金にはならない精神性は軽んじられていたのです。

 

 いつの間にか、良い大学に合格し、高収入の仕事に就くことが子育ての成功であるかのように、家庭そのものの機能が変わってしまいました。倫理的な教育はおそろかとなり、家庭は他人に迷惑をかけない人間、恥ずかしくない生き方をする人間性をしつけ、社会に役立つ人間、徳のある人間を育てる機能を放棄しました。

 

 子どもに問題が起こると、学校教育のせいにし、子どもの責任のありかが不在となっています。しつけはもともと家庭の役割でした。責任を取れない大人に育てられると、子どもはどのような大人に成長するのでしょうか。昭和の間に成人した昭和世代にとって、本当に不思議なことです。

 子どもの不祥事は、親の恥だった時代です。かつての日本の家庭は、他人の目を気にし、他人の迷惑になることや他人の物笑いになることを恥じていました。和を乱す放漫な生き方は、家庭だけではなく、社会の乱れであり、社会の目によって守られていました。

 

 しかし、高度成長とともに、主婦は家庭から社会へと出て行き、子どもが家に帰宅しても大人のいない家庭が増えていきました。「鍵っ子」と言われる子どもたちです。家の鍵を持ち、家へ最初に帰宅する子どもたちです。

 

 母親が家に居て、「お帰り」と迎えてくれる時代は昔のことです。母親は、子どもの様子を見て、学校で何かあったなと察するような、霊的な繋がりがありました。それは、社会に出るのは父親、家庭を守るのは母親だった時代のことです。子どもたちの精神の健やかさが守られた良き時代でした。

 

 「一億総活動社会」が推奨され、母親は働きに出ます。もともと、女性一般の特質は社会性ではありません。感情豊かな思いやりと心配りの特質を持ち、情緒面や精神面に影響を与える頼もしい存在です。

 

 男と女の特質を、完全に二つに分けることはできませんが、より傾向が強いという点においては、昔はそのようでした。個人においては、社会性に富んだ女性、心配り豊かな男性の方もおられます。ですから、男はこれ、女はこれ、ということは言えません。

 

 アダムが最初に造られました。ひとりの人でした。神は、アダムの助け手として、アダムのあばら骨から女(アダムの妻)を造られました。

 成り立ちをみると、夫は妻や子どもを自分自身のように愛して、社会の一単位の家族を守って養い、妻は家族の身体を気遣い、家族に明日への活力を得させるくつろぎの場を提供していました。

 

 ある兄弟が言っておられました。

 「女は男のハートから造られた。それで、女は情緒的だ。男は女に情緒面を取られてしまったので、女の感受性を共有することができない。

 女は直観力にすぐれており、男の直観力は鈍くて理解できない。女が直感で捉えていることを、男は長い時間を使って検証し根拠を確認して、ようやく女が捉えている事に至る。女は直観で男よりも先に実質を捉えるが、男は理屈によって女の後から理解する。

 女は感情的で、理論立った説明ができないので、男は、女の言うことを鵜呑みにはしない。男には実証が重要である。それゆえ、女は男に認められていない、軽んじられている、と感じる。また、男は感覚だけで確信を持つ女を危ぶむ。

 

 男と女は、同じ人間でも、全く特質の異なるものだ。そのことを理解して、夫は妻の直感を一笑に付さずに、女は男の理解できない部分を見て、見えていない自分に教えてくれているのだと謙虚に捉えるならば、夫と妻、あるいは男女が協力して物事の解決の糸口を見い出すのかも知れない。直観と実証はどちらも大切なもの、二つが揃って確証となる。

 

 女は、花を見て「綺麗」と素直に表現するし、美味しい物を食べて「おいしい」と素直に喜ぶ。男はプライドを誇りとする生き物で、そのような言動は子どもじみていると考え、表現することはしない。心の中に、綺麗、美味しいという思いはあっても、あえて言うほどの事でもない、と思っている。

 

 男と女は、持っている特性が違う。それを理解しないと、男と女は互いに壁を作ってしまうだろう。男はもっと素直になっていいと思うし、女は男がそのような女の特性をバカにしているのではなく、男にはない女の感性に驚き、また、新鮮な感受性に慰められ、真綿に包まれるような居心地よさを得ている、ということに気づいてほしい。

 

 八十代に差し掛かるくらいの兄弟の意見でした。

 なるほどな、と納得しました。現在の体制にそぐわない価値観かも知れませんが、昭和世代の私はすんなりと受け入れられました。

 

 ある一部の日本人は、本当に大切なものに目覚め始めているようです。

 生きることの大切さを深く捉え、いのちを生きるための生活を見直すようになっているようです。

 

 働いてお金を得て、お金で購入する生活から、生きることそのもののために働くという、お金を介さない生き方の中に、人間本来の「いのちを生きる喜び」という、現代では見失われている魂が安らぐ在り方の重要性を見直し始めました。

 

 自分でお米や野菜をつくり、自然の恵みに感謝しつつ収穫の喜びと生きている実感を味わいつつ、自分のペースで自然と共生する。そして、ある場所では、自分の能力や特性を生かしつつ、互いにあるものを交換し合い、ともに生きる村も始まっているようです。お金を稼ぐための仕事に時間を費やし心をすり減らした生き方を改め、生きてゆける手段を自分で創造し、互いに助け合う。それぞれの能力を出し合い、生きる喜びを実感する日々に心穏やかに過ごす。分かち合う生活の中で、自然と共生し、自然体に戻ることで、充足するいのちを生きる。

 

 縄文時代、縄文人は、多くの物を収穫するために精を出して働くのではなく、その日にできることをやり、その日に必要な物だけを収穫し、将来の心配もなく、心にはゆとりがあったようです。みながそれぞれの特性を生かして喜びつつ無理なく働き、分かち合って、必要なだけの物を収穫して食べ、感謝と優しさに満ちた平和な日本だったようです。

 

 なんと、令和の時代に、改めてその生き方に本来の生きる価値を見出し、積極的にみずからその生き方を選択している人たちがいるようです。

 

 イスラエルは、荒野で、神がマナ(神が荒野を行く民に、食物として与えて下さった天から降って来るパン)を賜った時、各自、自分の食べる分だけ集めました。多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはありませんでした。

 

 イスラエルは、神に生かされていたのです。

 日本人は、人を生かしてくださる神、いのちの神に目覚め始めています。

 

 文明を捨てて退化しているのではありません。大和魂が眠りから覚めて、本来の人間の在り方を思い起こし、魂の安らぎを取り戻しているのです。肉体によって目が塞がれていた霊的感性が覚醒し、この世はうつろうものであって、真の価値は、見えないものにあることに気づき、自分自身の魂に素直に従い、魂が素直に喜ぶ平安と自由を選んだ結果、この世の価値観と世間の常識に追いやられていた大切ないのちの在り方に辿り着いたのだと思います。彼らにとって、それは宗教ではありません。

 彼らは、永遠のいのちを得させようと良い御計画をお持ちの、目に見えない方に導かれているのだと思います。

 

 日本人の四割は、大和民族の遺伝子を受け継いでいるそうです。縄文人の遺伝子も目覚めているようですから、大和魂を持つ人たちの中に始まっている動きなのだと思います。大和民族の遺伝子を持たない六割の日本人には理解できない事だと思います。

 

 人生を生きていた人たちが、魂の声に耳を傾け、自分自身のいのちと向き合い、いのちを生きる在り方を捜し求めた先に見えた、いのちの使い方なのだと思います。理屈ではなく、直観で、ここに生きる実感があり、魂に嘘をつかないいのちの平安と喜びを確信したのだと思います。

 

 神は、宗教によってではなく、あらかじめ救いに定めた人たちを、いのちの生き方を正して、いのちを感謝しいのちを喜ぶ者として魂の束縛を解き放して、生ける神と歩むいのちの道へと導いておられるようです。

 日本人の目覚めが、いのちの主の喜びであり、日本人のいのちへの感謝が目に見えない神の御救いの道を開いて行くのでしょう。

 

 聖書を知らなくても、彼らは霊において、生かしてくださる目に見えないお方を知る人たちです。

 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」(マタイ6:26)

 彼らは、幼子のような純真な喜びをもって、いのちに感謝し、生きる事を楽しみ、霊とまことをもって神の御前を歩む人たちなのでしょう。