「私(パウロ)はきょうここで、あなたがた(教会の教職者たち)に宣言します。私は、すべての人たちが受ける裁きについて責任がありません。(あとは、主とあなたがた一人ひとりの問題です)
私は、神の御計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。(パウロは、落ち度なく、主から与えられた任務を終えました。主からゆだねられたみことばを、余すところなく、あなたがたにお渡ししました。パウロが伝えた神の御計画を、どのように捉え、どのように受けるかは、聞いたあなたがたと主との間の取り決めとなります。主からゆだねられたものをあなたがたにお渡しした以上、仲介役のパウロの務めは滞りなく成し終えました。受けたみことばを保ち続けるかどうかは、あなたがた自身の試みとなります。すでに、パウロの手からは離れました。責任は、群れの指導者であるあなたがたが負うこととなります。あなたがたがみことばに忠実ならば、神から良い報いを受けますが、みことばに逆らうならば、神の裁きがあります。仲介者のパウロには責任はありません)
あなたがたは自分自身(の信仰の土台)と群れの全体(教会に所属する信者たちの信仰の成長と群れの進む道)とに気を配りなさい。聖霊は、主がご自身の血をもって買い取られた主の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(神の御子イエス・キリストの血の犠牲によって罪が赦されて神の子どもに造り変えられる信者たちの魂の救いと、彼らが新しいいのちの道へと進むために、主はあなたがたを選び、教会を守り導く監督者〈魂の羊飼い〉とされたのです)
私(パウロ)が出発したあと、狂暴な狼(神のことばから引き離し、信者を信仰の道から外させる悪しき霊)があなたがた(教会の群れ)の中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私(使徒)は知っています。
あなたがた自身の中(教会の教職者たちの中)からも、いろいろ曲がったこと(聖書を私的解釈して真理から外れたこと)を語って、弟子たち(イエスに従おうと決意する熱心な信者たち)を自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
ですから、目をさましていなさい。私(使徒パウロ)が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
いま私(使徒パウロ)は、あなたがた(教職者たち)を主(の御霊)とその恵みのみことばとにゆだねます。(教職者たちの牧者は、キリストの御霊である聖霊であり、イエスのことばを思い起こさせ、また、真理を知らせます)みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(真理の御霊によって教えられる真理のみことばは、あなたがたを牧者として整えます。みことばをから御教えを受け取り、また、みことばを実行する信仰の歩みが、あなたがたを正しい道に立たせてあなたがたを悪い者から守り、群れをいのちの道へと導き、ともに天の御国にはいる神の子どもとされるのです)」(使徒20:26-32)
使徒たちは、教会を巡回して、教職者や信者たちに真理の教えを授けて回りました。
御霊に教えられている使徒たちは、使徒たちが去ったあとで、群れを荒らし回る狂暴な狼(羊たちを食いあさる悪しき霊)が教会の中にはいり込んで来ることを承知していました。
教職者たち、牧師が弱いから教会が荒らされるのではありません。敵(キリストの栄光を奪おうと隙を伺っている悪しき霊ども)は、必ずやって来るのです。
また、使徒たちが御霊にあって訓戒し教えた教職者たちの中からも、いろいろな曲がったことを語って、教会の進む方向を神御自身ではなく、自分自身に向ける者たちも起こるのです。
地上の次元には、どこでも歪みがあります。天の御国のように完全ではありません。キリスト教会が天の御国であるとは言えないのが現状です。
みことばに忠実な人もいれば、そむく人もいます。みことばに権威を認める人もいれば、疑う人もいます。天の御国を信じる人もいれば、信じない人もいます。イエスを神の御子と信じる人もいれば、疑う人もいます。
教会の群れがひとつ心となることは、地上のキリスト教会ではなく、霊的教会、すなわち、御霊の教会で実現するのです。
今は、仮庵の時代です。イスラエルが奴隷の家エジプトから連れ出され、カナンの地に向かって荒野を進んだ、イスラエルの荒野時代のようです。
イスラエルは、天からのパン(マナ)を食べ、岩から湧き出る水を飲んで、神の御霊に生かされて、約束のカナンの地に向かいました。
イスラエルを奴隷の家から解放したモーセは、律法を残して荒野で死にました。モーセの従者であったヨシュアがイスラエルの新しい指導者となって、カナンの地に導き入れました。イスラエルを神の民として育て、神の民の歩みを守ったのは、律法でした。
ご自身の血によって世の罪を取り除いた神の子羊イエスは死にました。イエスは、みことばを残して、世を去りました。神の子羊イエス・キリストは、死から甦り、復活のからだで天に上り、神の御座の右の座に着座されました。
神の御座の右に着座されたキリストは、弟子たちに、聖霊のバプテスマを授け、御霊によって、この世の荒野を導かれます。イエスのみことばが世の荒波を耐えるのを助け、また、約束の神の国にはいるためのいのちの道を歩む足のともしびです。
モーセに代わって、ヨシュアが約束のカナンの地に導き入れたように、イエス・キリストの御旨とひとつである「もうひとりの助け主」【真理の御霊】が、イエス・キリストが王となられる、約束の千年王国へと、導き入れてくださるのです。
信仰者は、いつも目覚めているのではありません。
人々の眠っている間に、キリストの敵が来て、良い麦の種が蒔かれたキリストの麦畑(キリスト教会)の中に、毒麦を蒔いて行くのです。
これは、どの教会にも起こることです。
イエスもたとえで話しておられます。
「麦が芽生え、やがて実ったとき(信仰が芽生えた信者の信仰が成長したとき)、毒麦も現われた。(それまでは信者と区別がつかなかった偽信者の正体も現われた)それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。
『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』(主よ。キリスト教会は、キリストの福音を信じた人たちの群れではありませんか。なのに、キリストを否定するような人たちもいます。信仰告白してキリストを信じた人たちに水のバプテスマを授けたのに、どうしてこのような事になったのでしょう)
主人(キリスト)は言った。『敵(キリストの敵である悪魔、すなわち、反キリストの霊、反ユダヤの霊、反イスラエルの霊、偶像礼拝の霊、人道主義の霊などの悪霊ども)のやったことです。』すると、しもべたち(群れの監督者たち、すなわち、牧師や教職者たち)は言った。『では、私たちが行ってそれ(毒麦、すなわち、悪しき霊の器の人たち)を抜き集めましょうか。』
だが、主人(キリスト)は言った。『いやいや。毒麦(偽信者)を抜き集めるうちに、麦(信者)もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫(終わりの日)まで、両方とも(麦も毒麦も)育つままにしておきなさい。(教会の中では、麦も毒麦もともに成長しています。見分けがつきません)収穫の時期になったら、私(キリスト)は刈る人たち(御使いたち)に、まず。毒麦(麦を痛めつけ苦しめた偽善者)を集め、焼くために束にしなさい。(毒麦は天の御国に招かれていない人たちです。いのちの書に名前が書かれていないのに、聖徒たちを惑わすためにはいり込んでいたのです)麦(信者)のほうは、集めて私の倉(天の御国)に納めなさい、と言いましょう。』(マタイ13:26-30)
教会の中に、狂暴な狼が入り込んで来て、群れを荒らし回ることは、起こることです。聖書が言っているのです。牧師や教職者がだれであっても、起こり得ることなのです。
「心を尽くして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。
すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6)
起こってしまった事を、こんな事が起こるはずがない、これは何かの間違いだ、と現実を否定したり、自分を責めたり、だれかを責めたり、現実逃避することなく、ありのままを受け入れ、現状を主に打ち明けて「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」と主を尋ねてください。
教会の主はキリストご自身なのです。教職者たちは、その管理を任された者です。主人であるイエス・キリストに報告し、助けと脱出の道を求めましょう。そうすれば、主はあなたのすべき事を示されるでしょう。主に信頼するならば、神の御霊が働いてくださいます。自分の知識も人の知恵も人間の力も主の御前に置いて、神に信頼してゆだねるならば、主は道をまっすぐにされるでしょう。