ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の洗いにより信仰を更新

 

 イエが宣教を始められて、公生涯にはいられると、イエスと行動をともにする弟子たちがいました。

 彼らは聖霊を受けていない、普通の人間でした。イエスを信じていながら、イエスの語る真理を完全に理解することのできない肉の人でした。イエスは、彼らにたとえで話されました。

 

 イエスの行なわれる不思議としるしを見るたびに、「弟子たちはイエスを信じた。」と聖書に書かれています。イエスを信じているはずなのに、どうして、再び、イエスを信じたというのか?弟子たちは本当には信じていなかったのか、と私には不思議でした。

 しかし、弟子たちは、その都度、信仰を確認し、また、信仰を更新していたのです。信仰は一度信じて終わり、というものではないようです。信仰の上に新たな信仰を上書きし、信仰から信仰へと成長するものなのです。

 

 「あなた(イエス)のためにはいのちも捨てます。」という弟子たちでしたが、イエスが捕らえられたとき、イエスを置いて逃げ去りました。

 聖霊が注がれていない弟子たちは、弱いものでした。敵の力に抵抗する力はありません。心がしなえてしまうのです。

 

 しかし、イエスが復活されて天の父のみもとに戻られ、キリストの主権(聖霊のバプテスマを授ける権威)をお受けになられると、弟子たちの信仰に進展がありました。

 キリストが、聖霊のバプテスマを弟子たちに授けられると、弟子たちは、御霊によって生まれて新生し、御霊によって生きる新しい人となりました。

 

 「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、御自分の憐れみゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)

 

 神は、キリストの血によって私たちの罪を贖い、罪を取り除いて義とされ、また、復活したキリストの御霊(聖霊)を与えて、私たちの霊を永遠のいのちにふさわしいものに造り変えてくださるのです。

 

 「キリスト(救世主)も一度罪のために死なれました。(神に従順で罪を犯したことのない)正しい方(神の御子イエス)が(神のことばにそむく)悪い人々(罪人)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(肉体においては、人は死にますが、霊においては、生かす御霊によって生かされて、永遠に生きておられる私たちの霊の父、いのちの根源であられる創造主のみもとへ帰らせるためでした)

 その霊(聖霊)において、キリストは捕われの霊たちのところに行って(キリストは十字架で罪の贖いの血を流された後、ノアの時代に罪を持ったまま大水に流されて死んだ人々のいる、陰府〈よみ〉に下られて)みことば(罪の悔い改めを促す、御救いのことば〈神のひとり子キリストが救い主であることを信じる信仰による、神の御救い【罪の赦しと永遠のいのち】を知らせる福音〉)を宣べられたのです。

 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たち(ノアの告げる神のことばを嘲り、箱舟の救いを信じなかった人々、すなわち、神が大水で世を滅ぼされたとき、大雨によって押し流された死者たちの霊)のことです。わずか八人の人々(ノアとノアの妻、ノアの三人の息子とそれぞれの妻)が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

 そのこと(暴虐に満ちた世が滅びるとき、神に従い箱舟にはいった八人が救い出されたこと)は、今あなたがたを救う(水の)バプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(御父と御子と聖霊の御名による水のバプテスマは、滅びる世にあって神の道を選ぶことを決意した者の神への誓いです。それは、イエス・キリストの復活によって裏づけされた御救いです。ノアが箱舟にはいり大水の滅びから救い出されたという史実は、神の国にはいる人々の御救いのひな型です。そしてまた、神は確かな御救いを、キリストの復活によって設けられました。それは、肉体ではなく、霊によって永遠に生きる神の国のいのちです。キリストの復活と同様に、キリストを信じる人は一度死んでも甦り、永遠のいのちと新しい復活のからだとを得させられる、という「新しい人」の創造です。それは、神の子羊イエスを死から甦らせた聖霊によります)」(ペテロ第一3:18-21)

 

 「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、(神の子羊イエス・キリストを信じる、あるいは、私たちを生かしてくださる「いのちの神(生けるまことの神)」を信じる)私たちに豊かに注いでくださったのです。

 それは、(いのちの神に不遜で、死と死後の裁きが定められていた)私たちが(慈しみと憐れみに満ちた神の、人への愛が現われたとき、滅びに定められていた罪人たちを、死と滅びから救い出すために遣わされた神のひとり子)キリストの恵みによって(罪を取り除く神の子羊イエスの贖いの血により神に)義と認められ、(神の子羊イエスを死から甦らせた聖霊なる神の与える)永遠のいのちの望みによって、(神の子どもに造り変えられて、神の御子イエス・キリストの兄弟姉妹となり、キリストとともに天の御国を相続する)相続人となるためです。」(テトス3:6,7)

 

 イエスの弟子たちが、イエスのみわざを見て、その都度、イエスを信じて信仰を確かなものとして行ったように、御霊を受けた人たちは、御霊の洗いによって、日々、神の子どもにふさわしくきよめられて行きます。

 

 聖霊は、私たちの内に働き、罪を知らせ、悔い改めへと導き、また肉の思いと御霊の思いとの判別力を養ってくださいます。

 御霊は常に働いておられます。信仰を持ったなら大丈夫、ではありません。いのちの道は、この世の人たちが見た事も聞いた事も歩んだ事もない、隠された霊の道です。肉の人にはわかりません。

 それゆえ、御霊が私たちの肉を取り扱いながら、また、ある時は試みにより、いのちの道を歩むにふさわしい者へと造り変えていかれるのです。神は、霊的な礼拝者を求めておられるからです。霊とまことによって礼拝する真の礼拝者は、神の御霊【聖霊】によって生まれ、御霊の洗い(取り扱い)によって教育されるのです。

 

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が(永遠に残される)良いことで、神に受け入れられ、(永遠のいのちにふさわしい者として、また天の御国に迎えられる神の子どもとして)完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって(心の向きを目に映る世のことではなく、永遠の御住まい〈神の国と天の御国〉を思う霊的なことに向けて)自分を変えなさい。(自分自身の歩みを、目に見えない霊なる神とともに歩みなさい)」(ローマ12:2)

 

 信仰も生きています。更新して、成長していくものです。

 日々、主とともに歩んでまいりましょう。

 

 「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主御自身がこう言われるのです。

 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』

 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。

 『主は私の助け手です。私は恐れません。

 人間が、(神とともに歩む)私に対して何ができましょう。』」(へブル13:5,6)