「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、(罪人たちから蔑まれ、嘲られて、大悪人として処刑される)はずかしめをものともせずに十字架を忍び、(悪魔と死に打ち勝ち、キリストの任務を成し遂げて)神の右の座に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方(神の子羊イエス)のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が(キリストを信じるがゆえの、世の人たちの蔑みと嫌悪と中傷に)元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(なぜならば、信仰に勝利する恵みの信仰は、その痛みや嘆きや苦しみを足台にして得るものだからです。勝利した者には、永遠のいのちととこしえの安息が用意されています)
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(へブル12:2-4)
パウロはかつて、サウロと呼ばれる熱心なパリサイ人でした。律法に厳格なサウロは、イエスの新しい教えを憎み、聖なる神の民イスラエルの中からイエスの教えを宣べ伝えるユダヤ人たちを根絶やしにしなければならない、と堅く信じる者でした。
それゆえ、イエスの弟子たちを捕えるために熱心に働いていました。パウロには、十字架につけたイエスに対してと同様に、イエスの弟子たちに強い殺意がありました。そして、イエスの弟子たちを迫害することが、ユダヤ民族に律法をお与えになったイスラエルの神に喜ばれる、神のための奉仕であると考えていたのです。
律法に通じていたサウロは、イエスの十二弟子が無学な者であることから、彼らの無知が、イエスの教えを信じさせているのだ、と思っていたのでしょう。律法を学んだことがないから、イエスに騙されるのだ。学識のあるサウロにとって、イエスの弟子たちは、騙す男イエスにまんまと騙された無知なユダヤ人たちであり、イエスの教えを広めてユダヤ人たちを騙す、呪われた集団のようだったのかも知れません。
イエスは、悪霊を追い出し、病人を癒し、ユダヤ人たちが付き合いを避けている律法を守らない罪人たちとともにおり、奇蹟やしるしを見せます。イエスは、不思議な力によって人々の心を虜にするカルト集団の創始者に違いありません。
彼らを放っておくなら、イエスの弟子たちはイエスの教えを広めて、律法の下にいるユダヤ人たちを誤った道に引き込んで、聖なる神の民イスラエルを聖なる神から引き離し、イスラエルの神に罪を犯させるのだ、とパウロは信じていたのでしょう。
聖書の知識のあるパウロは、律法によって霊的感覚が塞がれていました。律法を厳格に守っていたパウロは、霊なる神を知りませんでした。
律法の知識のない漁師の弟子たちや律法から外れた生き方をしている取税人や遊女たちには、愛がわかりました。イエスが愛である事、また、神は愛である事、イエスは神に遣わされた唯一のキリストである事。
他人から後ろ指さされる社会的立場の弱い人たちは、魂の悲しみや痛みや嘆きを体験して彼らの心の殻は砕かれ、彼らの孤独な霊は休み場を探して漏れていたのです。彼らの霊は生きていました。霊なる神を捉えることができました。
死から復活されたイエス・キリストが、霊の閉じた頑ななサウロに現われました。真理の光に照らされると、サウロの目の光は消えました。そして、神の霊を受けるとパウロの目からうろこのような物が落ちて、目がみえるようになりました。
聖霊が霊の目を閉ざしていた覆いを取り除き、パウロは、真理を知る御霊の知識を得ました。律法の力では知ることのできなかった真理を、知識や知恵ではなく御霊の力により信仰によって、パウロは受けたのです。
霊が開かれると、今まで見えていたことが、逆転しました。
無知だと思っていた無学な弟子たちは、イエスのことばにより真理を得ていたのです。彼らは、聖書を学んでいないのに、神を知っていました。神が遣わされたキリストを迎え入れる信仰を持っていたのです。
律法に厳格で神に熱心だったサウロは、聖書の知識はあっても、神を知りませんでした。真理に辿り着いていなかったのです。たくさんの知識があるのに、霊なる神を理解することができませんでした。神に奉仕していると自負していたサウロは、実は、神が遣わされたキリストに聞き従わないで、神に敵対する者であったことを知らされました。
神に熱心であったサウロは、実は神を知らず、聞き従わなければならない神の御子キリストにそむいて、神を悲しませている者でした。
無知なのは、無学な弟子たちではなく、サウロ自身だったのです。律法を厳格に守ることが救いではありませんでした。救いは、神が遣わされたキリストを信じること、キリストのみことばに聞き従うことでした。
神が望んでおられるのは、知識でも、人間の熱心でもありません。幼子のような純真な信仰と、霊とまことによる愛の交わりです。
霊なる神は、人に、霊的な交わりを望んでおられます。言葉を並べる祈りではなく、神の霊との霊的交わりです。そのために、人には霊が造られているのです。神は、交わりを求めておられます。愛のある者が神を知るのです。
パウロは改心すると、霊によって見、霊によって聞き、霊によって霊なる神と交わる者として、霊的な歩みをスタートする新しい人に生まれ変わりました。
自分自身の肉(自分の知恵や知識、また、自分の力で律法を守る努力)によってではなく、神が造られた霊の存在として、神の御霊とともに生きる者とされました。
パウロは、多くのイエスの弟子たちを迫害して来ました。
パウロが罪人として見ていた取税人や遊女は、キリストの兄弟姉妹であり、神に愛された者であることを知りました。
神の御子イエスを憎み、イエスの弟子たちを迫害して来たパウロこそが、神の前の罪人であることがわかりました。パウロは、自分のことを「罪人のかしら」と呼んでいます。
しかし、罪人のかしらのパウロも、神の子羊イエス・キリストの十字架の死によって罪が赦され、キリストの血によって罪が贖われたのです。神は、パウロの罪を責められません。
ユダヤ教に熱心で、イエスの弟子たちを殺意をもって迫害したパウロは、熱心なキリストのしもべとなりました。
「彼ら(イエスの弟子たち)はキリストのしもべですか。私(パウロ)は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそう(キリストのしもべ)なのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数え切れず、死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、死で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」(コリント第ニ11:23,24)
パウロは、あらゆる苦難によって、過去に犯した罪の痕跡にとらわれている自分の意識からキリストに目を向けて、完全にキリストのしもべとして立つために、戦い続けました。
パウロは、過去の自分に勝利しました。おそらく、悪しき霊は、パウロの過去を訴えて、パウロがくじけそうになるほどに働いたことでしょう。その度に、パウロは抵抗しました。
「闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼ら(世の人たち)は朽ちる冠(この世の栄誉)を受けるためにそうする(自制した生き方をする)のですが、私たち(キリストのしもべ)は朽ちない冠(天の御国にはいる神の子どもの「義の冠」)を受けるためにそうする(自制して御霊に聞き従う)のです。
ですから、私(パウロ)は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。(私たちのいのちの敵は悪魔です。キリストが悪魔と戦い勝利を取られたように、パウロも悪しき霊を見定めて、永遠のいのち〈御霊の信仰〉を奪われないように戦っているのです)
私(パウロ)は自分のからだを打ちたたいて従わせます。(御霊に聞き従い信仰を全うすることが永遠のいのちであることを知っているからです)それは、私がほかの人に(キリストの愛と恵みと御救いの福音)を宣べ伝えておきながら、自分自身が(信仰の)失格者になるようなことのないためです。(御霊の教会は、信仰に勝利した者の教会です。悪しき霊に打ち負かされて信仰を手放してしまうならば、御霊の教会にはいることはできず、永遠のいのちも受けられないのです)」(コリント第一9:25-27)
御霊にあって霊の存在として生きる者に造り変えられた私たちは、心を堅く保って、常に主にとどまっていましょう。
パウロは言います。
「いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。
あなたがたは、いのちのことばを堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:12-15)