「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また(自分の)子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている。
『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。」(へブル12:4-6)
神に対してうしろめたい思いを抱いているならば、それは、神と引き離す要因となる罪をうちに秘めているからです。
永遠の世界は、霊の世界です。霊の世界では、光と闇とがはっきりと分かれます。光の主権者は、生けるまことの神。闇の主権者は、悪魔。
生けるまことの神は、天地万物を造られた全能の神、主です。主は、光の主権者であられ、また、闇の上に立つ絶対主権者です。すなわち、唯一まことの神、主は、天においても地においても、すべての造られたものの主であられ、すべてのことにおいて決定権をお持ちの方なのです。
大いなる主には、ひとり子がありました。全宇宙を創造された主は、神に敵対する破壊者悪魔に汚されているすべての者を贖うため、すなわち、悪魔の支配と罪の縄目を打ち砕いて悪魔の支配から救い出し、悪魔の汚れをきよめて、光の子に造り変え、永遠のいのちを得させるために、神のひとり子を罪人の代わりとして死に至らせ、罪の贖いの血を流されました。
神は、闇に勝利して、闇の王者悪魔から多くの魂を買い戻すために、神の子羊イエスの血を用意されたのです。
子羊イエスの血は、罪のない全き血です。悪魔の汚れを絶ち滅ぼし、そのシミを残さないほどにきよめてしまう光の御力です。
主は仰せられます。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
悪魔は、イエス・キリストの血を嫌います。神の子羊イエスの血を憎んでいます。この贖いの子羊イエスの血のついている魂が、キリストの血の力を知ったならば、悪魔には太刀打ちできません。
幸いなことに、多くのクリスチャンは、そのことに気づいていません。イエス・キリストの御名を呼びながら、キリストの血の効力を知らないのです。それで、イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちの中に、ちょっと混乱の霊を働かせるだけで彼らはしなえて逃げ回ります。
ユダヤ人イエス・キリストの信仰を土台に置いていない、仮住まいのような信仰者が多いのです。
「救いはユダヤ人から出る。」この事は、聖書に書かれた真理です。しかし、多くのクリスチャンは、救いをユダヤ人に求めません。イエス・キリストがユダヤ民族から出た救世主であることを、正しく理解していないのです。
ユダヤ民族は、神が選ばれた神の祭司の国民であって、世界のあらゆる民族、あらゆる国民の御救いのために、神の国の祝福を現わすために召されている民族です。また、神の祭司の国民イスラエルは、神に御救いの約束された唯一の民族です。永遠に生きておられる全能の神と御救いの契約を結ぶ民族です。
御救いが約束されている民族は、ほかにはありません。ただ、神の御救いを求める人たちが、ユダヤ人から出た救世主イエス・キリストに出会って、神の祭司の国民にへりくだり、罪を贖い永遠のいのちを得させられる救世主(神の御子イエス・キリスト)に従うとき、神は、彼らを祭司の国民に加えられて、神の祭司の国民イスラエルに約束された御救いの契約ゆえに、彼らもいっしょに御救いを得させられます。
ユダヤ民族がこの世から消えたなら、その約束はなくなります。
ユダヤ民族から出たキリストの贖いとキリストの御霊のおかげで、異邦人もまた全能の神に受け入れられます。そして、ユダヤ民族が存在しているおかげで、その御救いの契約は存続しているのです。
思い出してください。世が洪水で滅ぼされたとき、箱舟の中にはいったノアとノアの家族だけが救い出されました。
次に、世が火で滅ぼされるとき、神が用意された御救いの契約を持つ民、すなわち、イスラエル(イスラエルの神の契約を土台とする使徒と預言者たちの信仰の土台の上に建てられ、キリスト・イエスご自身が礎石である、とこしえのイスラエルの家〈七つの御霊の教会〉)の中にはいった者が救い出されるのです。
悪魔は、キリスト教会に、偽りの信者を送りこみ、教会の中から真理を締め出しています。偽善者たちは、実にうまく立ち振る舞い、信者たちを偽りの平和により頼ませます。彼らのもたらす不真実な混ぜ物は、人間の欲を満足させ、人間の意識を活性させます。
人間的に残虐と見える行為を悪とし、偽りの平和を善とします。
悪魔に思いを暗くされている信者は、真理の光を見ることはありません。魂のどこかで懐疑的な思いを抱きながら、教会の教えは正しいものと考えて自分自身を自制させ、その教えに従います。しかし、本心を偽るその納得が、実は、自分自身の魂を窒息させている事に気づきません。目に見えない透明の隔ての中に自分の魂を押し込んで、もはや、その人の霊は息をしていないのです。
自分の魂の感覚に正直に向き合う人は、おかしい事はおかしいと感じる感性を大切にします。自分を偽りません。永遠のいのちを得たいと願っているのに、なぜ、窒息状態の自分がいて、いのちの教会の中で息絶え絶えなのでしょう。
真理は知識ではなく、霊的感性によって、うちなる霊が納得するものです。
それは、強迫観念と恐れによって追いやられて、そこに救いを見い出させるような霊的なアプローチや、自分の欲望を満足させる喜びを与えるものではありません。知性を刺激したり、自分の肉を喜ばすものではありません。
自分を覆っていた不真実な闇や、霊的な壁が取り除かれ、光が差し込むような解き放たれた自由と魂の安らぎと平安です。自分の存在そのものを喜び楽しむいのちの解放ときよい空気と愛の光です。
反ユダヤ、反イスラエルの思想は、反キリストの霊がもたらす、偽りの光、偽りの平和であることを教えてくれる人がいないキリスト教会は哀れなものです。
キリスト教の外にいる日本人は、霊によって感じます。聖書を知らなくても、自分自身の霊的感覚を信頼するのです。
霊的感覚の開かれた人は、神の存在や悪魔の存在の知識がなくても、自分自身の魂を死なせません。生きる事を望みます。それで、魂の素直な感性をとらえることができるのです。
キリストを信じている人たちのところに、反キリストの霊は忍び込み、彼らの霊的感覚をコントロールするでしょう。
しかし、キリストを知らない人たちは、自分自身の霊で、本物と偽物を見分けるのです。彼らは、宗教が救いだとは思っていないからです。
自分を正しい道に導くものは、自分自身の中にあることを知っているのです。自分の中にある霊的感覚を大事にします。
キリストを信じていても、自分自身を信頼していない人、自信のない人は、周囲に振り回されます。自分自身と和解することは、とても大切なことです。
自分の中の霊的感覚を大切にしてください。直感は、原始的ですが、実は、神が危険から守るために人のうちに置かれた、生きるためのいのちの機能なのです。
魂の素直な感性を押しやり、自分に無理させて霊が迷子になっているならば、静かに霊なる神と向き合ってみましょう。
自分の霊は、風に揺られる木々のように不安定なものですが、霊なる神は、とこしえの巌です。この霊なる神が造られた自分の霊を、誰かと結びつけるのではなく、とこしえに変わることのない神に結びつけましょう。
どんなに激しい風が吹いて木々が揺れたとしても、吹き飛ばされないならば、根は張ったまま、神の御前から動いていないのです。かえって、その風ゆえに、根はますます強くされることでしょう。
「立ち返って(思いを主の方に向けて)静かにすれば(自分自身の霊を注ぎ出し神の前に出れば)、あなたがたは救われ、落ち着いて、(主と主のことばと、自分自身の霊的感覚に)信頼すれば、あなたがたは(真理の助けを受けて)力を得る。」(イザヤ30:15)
「私の魂よ。おまえ(魂)の全き憩いに戻れ。(イエスは心優しく、へりくだっておられるから、キリストのくびきを負うならば、魂に安らぎが来ます)
主はおまえ(私の魂)に、良くしてくださったからだ。」(詩篇116:7)