「エルサレムに着くと、(主にある)兄弟たちは喜んで私たちを迎え入れてくれた。
次の日、パウロは私たちを連れて、(長老)ヤコブを訪問した。そこには長老たち(使徒たち)がみな集まっていた。
彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話し出した。
彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。
『兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。(律法に熱心なユダヤ人も、幾万という人たちがキリストを信じていたようです)
ところで、彼ら(律法に熱心なユダヤ人のキリスト信者たち)が(噂で)聞かされていることは、あなた(異邦人の使徒であるパウロ)は異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセ(の律法)にそむくように教えているということなのです。
それで、どうしましょうか。あなた(パウロ)が来たことは、必ず彼ら(パウロはモーセの律法にそむくように教えていると言っている、律法に熱心なユダヤ人のキリスト信者たち)の耳にはいるでしょう。
ですから、私たち(長老たち)の言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。(神の前に身を清めて、パウロの潔白が彼らにもわかるようになることを祈っている人たちがいるのです)
この人たちを連れて、あなた(パウロ)も彼ら(四人)といっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用(誓願の証のための費用)を出してやりなさい。そうすれば、(神の御霊が働いて正しい理解を促してくださり)あなた(異邦人の使徒パウロ)について聞かされていることは根も葉もないことで、あなた(パウロ)も(ユダヤ人の)律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。(パウロは、異邦人の使徒として、異邦人に救いの道を教えていたのです)
信仰にはいった異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉(物)と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たち(十二使徒たち)はすでに手紙を書きました。(異邦人は、ユダヤ人のようにならなくても、キリストによって救いにはいるのです。すなわち、異能人はユダヤ人の律法を守らなくても、また、肉の割礼を受けなくてもよいのです)』」(使徒21:17-25)
七日間が満ちる前に、誓願もむなしく、アジアから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼(パウロ)に手をかけて、こう叫びました。
「イスラエルの人々。手を貸してください。この男(異邦人の使徒パウロ)は、この民(神と契約を持つユダヤ民族)と、(モーセの)律法と、この場所(神の都エルサレム)に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシャ人を(イスラエルの聖なる)宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を(無割礼の異邦人によって)けがしています。
彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだと思ったのである。」(使徒21:28、29)
使徒の時代に、すでに、律法に熱心なユダヤ人たちの中にキリストを信じる信仰に入っている人がいたようです。
しかし、彼らの信仰の土台には、ユダヤ人の慣習とモーセの律法がありました。
異邦人がユダヤ人の神に改宗するとき、アブラハムの契約を守って割礼を受けさせ、また、ユダヤ民族に与えられたモーセの律法を守ることを教えてユダヤ人の伝統としきたりを守らせました。
肉の割礼と律法を守ることは、イスラエルの神の民の中にはいる条件でした。これを守って、異邦人はユダヤ人のひとりのようになり、神の契約の民に加えられるのでした。
律法に熱心なユダヤ人は、この古い慣習の中にいました。彼らは、イエス・キリストを信じてもユダヤ人と同じようにならなくては、無割礼の異邦人のままであって、ユダヤ民族と等しい恩恵を受けることはできないと考えたのです。
実は、この問題は以前にも起こっており、激しい論争の後、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけない、と決めていました。
使徒15章に書かれています。
モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、無割礼の異邦人は救われない、と訴えるユダヤ人たちがいました。
パリサイ派の者でキリスト信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言いました。
福音のことばを聞いていた異邦人に聖霊が下ったのを目撃したペテロは、知っていました。神は、イエスの弟子たちに授けられた聖霊のバプテスマを、神の御子イエス・キリストを信じる異邦人にも授けられることを、すでに知っていました。
それで、ペテロは言いました。
「人の心の中を知っておられる神は、私たち(イエスの弟子のユダヤ人)に与えられたと同じように異邦人(の信者)にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし(彼らが神に受け入れられたことの証として、異邦人にも聖霊を下されて)、私たち(割礼のしるしと律法の下にいるユダヤ人たち)と彼ら(無割礼で、律法の外にいる異邦人たち)とに何の差別もつけず、彼ら(神の子羊イエス・キリストを信じる異邦人)の心を信仰によってきよめてくださったのです。(肉の割礼のしるしがなくても、律法を守っていなくても、罪を贖うキリストを信じる信仰によって、彼らはきよいのです)
それなのに、なぜ、今あなたがた(ユダヤ人)は、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびき(律法を守ることのできない罪に悩み、罪の呪いに怯えること)を、あの弟子たち(異邦人の弟子たち)の首に掛けて、神を試みようとするのです。
私たち(ユダヤ人)が主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たち(異邦人)もそうなのです。(イエス・キリストの十字架の死によって、律法を守れない罪は赦され、罪の報酬の死から解放されたのです。また、聖霊のバプテスマによって、真理の御霊をいただき、永遠のいのちを得させられる恵みと神の子どもとされる希望をいただいたのです。神の御救いは、信仰によって得るのです)」(使徒15:8-11)
ペテロは結論づけて言いました。
「私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。
ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。
昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(使徒15:19-21)
すでに、神の教会ではそのような取り決めがありました。しかし、律法に熱心なユダヤ人信者たちには受け入れられないことのようです。
イエスは言われました。
「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みません。『古い物は良い。』と言うのです。」(ルカ5:39)
人の心をよくご存じのイエスは、ユダヤ人たちの葛藤を知っておられたのです。
厳格に律法を守って来たユダヤ人であればあるほど、納得のいかないことです。
イエスは、律法を守れない罪人の取税人や遊女を受け入れて、彼らはイエスを信じました。そして、今度は、ユダヤ人ではない無割礼の異邦人までも、律法を厳格に守って来たユダヤ人と並べて、御救いにあずからせようとされるのです。
割礼が、聖なる民イスラエルと、異邦人を隔てるものではなかったのですか。ユダヤ人が割礼を受けないならば、聖なる民から絶ち滅ぼすと言われているではありませんか。それなのに、無割礼の異邦人に聖霊を授けて、ユダヤ人と等しくされるのですか。
律法が、神の祭司の国民と、異邦人を聖別するものではなかったのですか。律法が、神の民である証ではありませんか。律法を持たない異邦人が、なぜ、聖なるイスラエルに数えられるのですか。
イエスはたとえによって話されました。
「だれでも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂く(裂いてだめにしてしまう)ことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れ(新しいきれ)も、古い物には合わないのです。
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、(発酵する)新しいぶどう酒は(硬くなった古い)皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋も(ぶどう酒も両方とも)だめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」(ルカ5:36-38)
イエスは、ご自分の肉を裂いて十字架で死に、古い皮袋を裂かれました。肉の割礼、文字の律法の契約を完了されたのです。
ユダヤ人のイエス・キリストは、ユダヤ民族の契約をご自身において、完成されました。
『ユダヤ人の王』という罪状書きの十字架につけられた神の御子イエスは、ユダヤ民族の王として、ユダヤ民族の代わりに律法の呪いを受けられました。そのとき、律法の外にいる人たちの罪の呪いも、神の子羊イエスが負われて、イエス・キリストは、世の罪を取り除かれたのです。
世の罪を取り除いた神の子羊イエス・キリストは、死から甦り、「ユダヤ人の王」から、「イスラエルの王」となられました。
イスラエルの神も、ユダヤ民族の神「イスラエルの神」から、イスラエルの王イエス・キリストの国民の神、すなわち、「とこしえのイスラエルの神」となられたのです。
神は、古い皮袋(ユダヤ民族)に代わって、新しい皮袋(七つの御霊の教会)を用意されました。
神は、古いぶどう酒(肉の割礼とモーセの律法)に代わって、新しいぶどう酒(聖霊のバプテスマと御霊による心の割礼)を用意されました。
古い律法は、肉の契約です。キリストを生む、「肉のイスラエル」を完成します。
新しい律法は、霊の契約です。神の子どもを生む、天の御国にはいる「とこしえのイスラエル」を完成します。
しかし、長い間、ユダヤ人たちは、「古い物は良い。」と言って、新しい物を望みませんでした。