ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちある教会

 

 「(神の御子イエス・キリストを信じる)あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは(キリストのからだの)各器官なのです。」(コリント第一12:27)

 

 キリスト教会では、キリストの十字架のみわざを記念して、パンとぶどう酒の聖餐式を執り行います。

 イエス・キリストご自身が、記念とするように、と命じられたからです。

 

 イエスは、十字架にかかられる前日、弟子たちといっしょに過越しの食事をされました。

 「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。 

 イエスは言われた。

 『わたし(イエス)は、(十字架のはずかしめと)苦しみを受ける前に、あなたがた(十二使徒)といっしょに、この過越の食事(過越の祭りの食事)をすることをどんなに望んでいたことか。

 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。(世が改まり、神の子羊イエス・キリストがイスラエルの王となる「千年王国」が建てられるまでは、イエスは、二度と地上における過越の食事をすることはありません。すなわち、イエスは、この過越の祭りの食事を最後に、世を去るのです)」(ルカ22:14-16)

 

 神は、エジプト人の奴隷イスラエルを神の御力により奴隷の家エジプトから連れ出された神のみわざを記念して、イスラエルに、過越の祭りを行なうよう命じられました。

 イスラエルは、神の命令に従い、神に定められた「過越の祭り」を毎年祝って、出エジプトを記念し、神の恵みを喜び楽しみました。

 

 イエスは、最後の食事の席で、新しい記念を、使徒たちに命じられました。

 「(イエスは)パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。

 『これは(このパンは)、あなたがたの(罪の赦しと義の)ために与える、わたしのからだ(キリストのからだ)です。わたし(十字架で肉を裂かれ屠られる神の子羊イエス)を覚えてこれを(神の子羊イエスの、罪の贖いの十字架のみわざを記念する聖餐)を行ないなさい。』

 食事の後、杯も同じようにして言われた。

 『この杯(ぶどう酒)は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(キリストの血は、罪を贖い、神の子どもとされる特権を与えます。キリストの血は、イスラエルの垣根を超えて、あらゆる民族、全地に及ぶ、生けるまことの神と和解する新しい御救いの契約です。キリストの十字架で流される贖いの血を記念し、キリストの血(聖餐のぶどう酒)を飲む者は、永遠のいのちのキリストのからだとなるのです)』

 しかし、見なさい。わたし(神の御子イエス・キリスト)を裏切る者の手(銀30枚と引き換えに、イエスを祭司長たちに引き渡す手はずを整えた、裏切り者のイスカリオテ・ユダの手)が、わたしとともにあります。(キリストを裏切る者がキリストの食卓にいっしょに居るのです)

 人の子(「人の子」となられた神のひとり子)は、(神が)定められたとおりに(聖書に書いてあるとおりに)去って行きます。しかし、人の子(神が遣わされた、悪魔を踏み砕く女の子孫キリスト)を裏切るような人間は(神に永遠に)呪われます。」(ルカ22:19ー22)

 

 マタイも記録しています。

 「彼ら(十二使徒)が(過越の)食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これ(パン)を裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これ(聖餐のパン)はわたしのからだです。』

 また杯(ぶどう酒)を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これ(この聖餐のぶどう酒)は、わたしの契約の血です。(あなたがたの罪を取り除き、新しい人に造り変え、天の御国にはいらせるための、神の御子イエス・キリストのとこしえの契約です)(キリストの血は)罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ26:26-28)

 

 キリストは、いのちを与えるために来られました。

 救い主イエスを信じて神と和解する者たちに、永遠のいのちを得させるために、来られたのです。

 

 しかし、イエス・キリストを信じて信仰告白する群れ(キリスト教会)の中にいる者のすべてがキリストのからだではありません。

 キリストの食卓にあずかりながら、キリストのからだに繋がらない者は大勢います。

 キリストのからだとは、キリスト教会のことではなく、キリストの御霊によって建て上げられる、御霊の教会のことです。

 一度死んでも、甦り、永遠のいのちを得させられる、御霊を飲む人たちです。

 キリストは、肉の契約ではなく、新しい契約【御霊の契約】を、私たちにお与えになりました。

 

 神の契約は、天の御国にはいらせるための「新しい契約」に更新されたのです。

 

 モーセが神に遣わされて、イスラエルを奴隷の家エジプトから連れ出すとき、神は、イスラエルに命じられました。

 奴隷の苦しみから救い出してくださったイスラエルの神を覚え、過越の祭りを記念するように命じられました。

 

 神の子羊イエスが神に遣わされて、イスラエル(神と契約を持つ神の民)を罪の呪いの「死」と世の「滅び」から救い出すとき、(すなわち、神の子羊イエスが十字架で屠られるとき)神の御子イエス・キリストは、弟子たちに命じられました。

 死の呪いと罪の縄目から救い出してくださるキリストの十字架を覚え、裁きを過越し永遠のいのちを得させてくださる「キリストの新しい契約」を記念する、パンとぶどう酒の「聖餐」をするように命じられたのです。

 

 パウロは言います。

 「(主イエス・キリストを信じる)私たちが祝福する祝福の杯(聖餐のぶどう酒)、それはキリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパン(聖餐のパン)、それはキリストのからだにあずかることではありませんか。

 パンが一つであるから、私たち(キリスト信者)は多くいても、一つのからだなのです。みんなの者が一つのパンを共にいただくからです。(一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いにキリストのからだの器官なのです。私たちは、神に与えられた恵みに従って、異なった賜物を持ち、めいめい賜物に応じて神の働きをするのです))」(コリント第一10:16,17)

 

 「それは、(一つの御霊により)聖徒たち(キリストの血によって罪が贖われた、生ける神の民)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだに建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致に達し、完全なおとな(失敗や懲らしめの経験により良い物と悪い物〈神に受け入れられる物とそうでない物〉とを見分ける感覚を訓練された成人、すなわち、霊的にしっかりとした土台の上に立ち、信仰に踏みとどまり、キリストの愛により結び合わされたキリストのからだ)になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。)」(エペソ4:12,13)

 

 生きたキリストのからだは、永遠に生きておられる御霊を飲んで、キリストを基として、生けるまことの神が遣わされた御霊の導きに従い、御霊において組み合わされ結び合わされて、それぞれの部分(器官、すなわち、ひとりひとり)は分に応じて働き、愛と感謝と祈りのうちに育てられ、こうして、キリストのからだは成長してゆくのです。

 

 神の教会は、永遠のいのちを得させるキリストのからだです。

 律法やしきたりにとらわれる組織ではなく、自由の御霊によって導かれる、生きた魂の集まりです。

 

 いのちの神に教えられ、良い物と悪い物とを見分ける感覚が訓練され、霊において、いのちの神と繋がる人たちです。

 

 騙し惑わす策略により、人々の悪巧みによって起こる様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、真理をとらえる人は、聖なる霊(生ける神の御霊)に教えられている人です。

 

 聖なる霊は、キリスト教会だけのものではありません。

 身魂をきよめ真理を探る人、感謝を忘れない人、親切な人、愛のある人、義に飢え渇く人、悲しむ人、魂の声に素直に聞く人、心のきよい人、あわれみ深い人、心の貧しい人、義のために迫害されている人など、とこしえのいのちにふさわしい人は大勢います。

 

 神は、霊とまことによって神に近づく人、霊なる神を真実な心で礼拝する人に、いのちの希望を見い出されます。とこしえのいのちにふさわしい者として覚えられるのです。

 

 神は、終わりの時、全地に生かす御霊を注いで、いのちある教会(七つの御霊の教会)を建て上げて、永遠に生きるキリストのからだを完成されます。

 神が永遠のいのちにふさわしいとされる人たちは、生かす御霊を受け、いのちあるからだ(永遠に生きるからだ)のかしらであるキリストに結び合わされるのでしょう。

 

 キリスト教からだけではありません。古神道からも神道からも仏教からも、ユダヤ教からも、また、ほかの宗教や宗教に属していなかった人たちからも、偽りのない魂たちが集められることでしょう。

 

 みながキリスト教徒になるのではありません。それぞれの場所から、純真な魂、へりくだった魂、偽りのないきよい魂は、生かす御霊によって集められ、いのちの根源である霊の父、魂の父のもとに帰るのです。

 

 彼らは、教義や伝統、掟や人間の教えによってではなく、それぞれの霊により、いのちの御霊を迎える人々です。

 これこそが、いのちある教会、すなわち、父なる神が、御子イエス・キリストにお与えになるキリストのからだなのです。

 

 過越の祭りを祝っていない異邦人にも御救いが及んだように、聖餐の記念の集いに加わっていない異教徒たちにも御救いは及ぶのでしょう。

 これこそが、民族、言語、宗教の垣根を越えた、唯一神の、御救いなのです。

 

 いのちある教会は、いのちを愛し、感謝と喜びに満ち、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 目に見えない「生かす御霊」によって建てられる御霊の教会の土台には、真実な信仰があります。そして、父なる神と子なる神と聖霊によって生まれた「いのちある教会」は、魂の救いを得ているのです。