ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天の御国の人

 

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

 

 心が貧しいとは、了見の狭い偏狭な人、心が広くない人、人間が小さい人のイメージがあります。

 しかし、イエスは、心が貧しい人ではなく、心の貧しい人の事を言っておられます。

 

 その人の人間性ではなく、心そのものが高ぶらず、自己主張せず、周囲に溶け込み、妨げとならない存在で、しかも、自分のするべきことは丁寧に成し遂げる、そんな謙虚な心のことを言っておられるのだと思います。

 

 自分を殺すのでもなく、静かに存在しながら、周囲を生かす。黙って支える。

 だれもその人の存在に気を留めるのでもなく、また、評価されるのでもないが、いつも変わらず静かに存在し続けている。

 

 災害が起きた時、失ったものを嘆き悲しみますが、しばらくすると、何気ない日常が自分にとってどんなに大切なものであったのかが思い起こされます。

 普段気にも留めていなかった一つ一つのこと、「おかえり。」と言って迎えてくれる家族、「行ってきます。」とあいさつする人がともににいる。

 

 目の前に用意された食事、何気ない会話。これらの小さな幸せに気づくのです。当たり前すぎて、幸せの一つに数えることのなかった一つ一つのことが、愛おしく心に迫ります。

 

 普段気づくことのない、ごくごく当たり前の幸せがそこにありました。

 環境が激変し、自分を取り巻いていたものがすっぽりと無くなってしまった後に残る思い出。それが、実は、その人の心を支えていた安らぎでした。

 

 すべてのものを失って、心に残る思い出は何でしょう。それが、その人の心の宝なのでしょう。人は愛に包まれていたのです。

 その大打撃から救い出してくれるものは、人の優しさと寄り添う心。やはり、目に見えない心の交わり。

 

 人を支えていたもの、家族を支えていたもの、社会を支えていたもの、その根底にあるものの多くは、目に見えないもの。心のふれあい。

 

 心の貧しい人は、そのような存在なのかもしれません。人の目には小さなものに映りますが、人の心には大きな存在です。

 

 城の城壁の古いものに、野面積み(のづらづみ)があります。

 一つ一つの石を加工せずに、自然のままの形の石をそのまま積む石垣です。石の形には統一性がありません。石同士がうまくかみ合わないのでうまく固定ができず、石と石の間にできた隙間に小さな石を詰めて固定します。

 なんと、この野面積みは、一つ一つの石がその形のままで統一性のないように見えますが、石垣全体は強度が高く、隙間がある分、揺れによる圧力が分散されるので地震に強いそうです。また、排水性が高く、大雨でも崩れにくいのだそうです。

 

 石と石の間の隙間に詰められた小さな石が、要のような働きをして、支えています。小さな石の一つ一つはそこに存在している事すら意識されませんが、縁の下の力持ちです。

 

 この小さな石がなければ、積み上げた石垣はごろごろと崩れ落ちることでしょう。

 天の御国は野面積みの石垣のようです。

 表面に立つ人のために目立たないところで祈り支える人がいます。人には見えないところで力を尽くし、苦労しながらも、泣き言を言わず、つぶやかずに自分の成すべきことをなして支える、心の貧しい人です。

 脚光を浴びることを望まず、陰で重要な役割を果たしています。

 

 野面積みの石垣のような天の御国は、一人一人に分け与えられた賜物に応じて、それぞれが働きます。人工的に加工を施して、調和させるのではなく、一人一人は神の御霊に与えられた働きを果たしていきます。影で支える祈り手、小さな石の存在によって、全体は組み合わせられて調和するのです。

 

 人間の思いで調和を図るのではなく、人がめいめい分け与えられた賜物を用いて、石垣に積まれる石となります。一つ一つの石は、神に仕えるひとりひとりです。石垣に用いられる石に整うと、積み上げられます。すると、その人の知らないところで執り成していたひとりひとりも石を支える小さな石として、積み上げられます。

 

 人は、その小さな石を知りませんが、神は、その小さな石を、天の御国の野面積みの石垣になくてはならないものとして、積み上げられます。

 

 小さな石は、天の御国の人だからです。

 石垣に積み上げられる石は、強度を調べ、形を見て、選ばれます。石垣に適した石かどうかを見定められるのです。

 しかし、どんな石をも支える小さな石は、形の違いに問題はありません。小さな石の形は、石垣を積み上げるのに支障がありません。数が必要なのです。

 

 人の目は、目立つ人に目がいきますが、神の目には、この一つ一つの小さな石、自己主張せずに、黙々と他の人のために陰で苦労する人が尊いのです。

 

 イエスは言われます。

 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(ルカ6:20)

 

 心の貧しい人の魂は、すでに天の御国にいるのです。この世では輝きを知りませんが、天の御国で輝く尊い魂なのです。