「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方(イスラエルの神)のもとに帰れ。
その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の神々を退けるからだ。(イスラエルが我に返って、生けるまことの神に立ち返るとき、彼らの心はもはや偶像を慕わない)」(イザヤ31:6,7)
イスラエルを守り、イスラエルとともにおられる神は、イスラエルの父祖アブラハムが契約を結ぶ全能の神、主です。
イスラエルの父祖アブラハムは、生けるまことの神を知っていました。神の御声を聞き、神に聞き従う神のしもべでした。アブラハムは、神を知り、神を恐れる正しい人でした。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心が御自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌16:9)
アブラハムの子孫ユダヤ民族は、アブラハムの契約と祝福とを受け継ぎました。
イスラエルは、神が信仰の人アブラハムお与えになったカナンの地を相続する国民であり、地上のすべての民族を祝福する救世主、すなわち、人の子となられた神のひとり子イエス・キリストを遣わされた、神の祭司の国民です。
神の御救いは、ユダヤ人とともにあります。神の御救いは、ユダヤ人から出るのです。
しかし、アブラハムの信仰を受け継ぎ、アブラハムの神に仕えるはずのイスラエルは、神から聖書をゆだねられ、神の神殿を建てると、ほかの国々のように、儀式的な信仰となりました。
イスラエルは、父祖アブラハムの生ける神との交わりの信仰を相続しているのに、アブラハムが仕えた生けるまことの神を知りません。
アブラハムが出会った全能の神は、生けるまことの神であられ、アブラハムの父祖セムの父ノアが御声を聞いて従った神です。
イスラエルは荒野でモーセの律法を与えられました。ノアが仕え、アブラハムが仕えた全能の神、主は、イスラエルの神となられました。
イスラエルの王ダビデの子ソロモン王の治世に、神の律法を与えられているイスラエルは、神が選ばれた神の都エルサレムに、イスラエルの神の神殿を完成しました。
イスラエルの信仰は、神殿とともにあり、イスラエルの神に仕えるはずでしたが、王たちの心はほかの国々の神々(偶像)を慕い、厳しい戒めを持って苦しめるイスラエルの神のことばを預かる預言者を退け、イスラエルの神の怒りを買いました。
偶像の神々は、イスラエルの神のように聖なることを要求しません。好き勝手に生きたい人間には、ありがたい神々です。
イスラエルの神は、神に聞き従うならば祝福の道を、しかし、聞き従わないならば呪いの道を、イスラエルの前に用意していることを語っておられました。
イスラエルの良心は腐ってしまいました。神の呪いの用意されている事を忘れたのです。悔い改めることもできません。呪いの道まっしぐらです。
イスラエルの王ソロモンは、神殿を建てた王なのに、その心は父ダビデ王のようではありませんでした。神の命令に背くソロモン王の心は神とひとつではありませんでした。
ソロモン王の罪を怒り、神はイスラエル王国を二つの王国に分けられました。
神殿が建ち王国として確立したイスラエル王国は、ソロモン王の子孫が王となる南ユダ王国と、ソロモン王の家来が王となる北イスラエル王国の二つに分裂しました。
神は、神に背いて偶像礼拝に汚された北イスラエルを怒り、アッシリアに捕囚し、離散させられました。
北イスラエル王国が神に裁かれたのを見ていながら、南ユダ王国は、神の御前に自分たちの不信の罪を悔い改めることなく、バビロンに渡されました。
バビロンに捕囚された南ユダ王国は、エルサレムの神殿を崩壊され、バビロンの地において、悔い改めて、神に立ち返りました。
神殿を失った南ユダ王国は、モーセの律法に守り従うことで、神の祭司の国民として、神の御前に立ちました。
イスラエルは、預言者エレミヤの預言どおり、七十年の捕囚の時が満ちると、再び、イスラエルの地に帰還して、ユダヤ人の国を得たのです。
しかし、イスラエルには、神の強い御手がのしかかっていました。律法を守ることにとらわれたユダヤ人たちは、律法の奴隷となり、父祖アブラハムが仕えた生けるまことの神を見失っていました。
彼らの霊は、閉ざされていました。神は霊であるのに、自分たちの霊が閉じているので、神がわからなくなっていたのです。
律法を守ることが、神に義とされることだと思っていました。
しかし、生ける神は、文字ではありません。生きて働かれる霊なのです。生きて働かれる霊なる神と交わるためには、ユダヤ人の霊も目覚めていなければなりません。霊の眠っているユダヤ人には、神を見ることも、神の御声を聞くこともできません。
さて、アブラハムと契約を結ばれた生けるまことの神は、「生ける神のことば」にからだを造り、ユダヤ人の女の産んだ子として、アブラハムの子孫イスラエルに、遣わされました。神のひとり子イエス・キリストです。
しかし、霊が閉じているユダヤ人には、わかりませんでした。見ているのに、イエスのみわざに神の栄光を見ることができず、聞いているのに、イエスのみことばに神の教えを受けることができません。
神が、古くから預言者たちを通して語っておられた方、神が遣わされる神の御子キリストがイスラエルに来られているのに、悟ることができませんでした。
神は強情なイスラエル(バビロン捕囚から帰還した南ユダと、南ユダとともに帰還した北イスラエルのわずかなユダヤ人)を怒り、アッリシアに捕囚された北イスラエル王国のように、世界に散らされました。
神は、いつも、イスラエルに語りかけておられます。
「ヤコブよ。(アブラハムの血肉の子孫ユダヤ民族よ)これらのことを覚えよ。
イスラエルよ。(アブラハムの契約と祝福を得るために、人と戦い神と戦って勝ち取った信仰の勝利者たちよ)あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。(神御自身が新しい創造をして神の民とされた)あなたは、わたし自身のしもべだ。
イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。
わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
わたしに帰れ。(神に立ち返れ)
わたしは、あなたを贖ったからだ。(もうあなたの罪を思い出さない)」(イザヤ44:21,22)
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者(生けるまことの神の信仰を持つ者たちの中にいる助け主)、あなたの救い主(死と滅びから救い出す救世主)であるからだ。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-3、5)
神は、イスラエル(アブラハムの血肉の子孫のヤコブ〈ユダヤ民族〉と、信仰によって生けるまことの神に近づくアブラハムの信仰の子孫〈キリスト者、そして、生けるまことの神とともにいる者〉と)に、主の霊を注がれます。
「ついには、上から(主の)霊が私たちに注がれ、荒野(枯れた枝)が果樹園(実をみのらす生きた枝)となり、果樹園(生ける神のいのちをいただいて、義の実を結ぶ人々)が森(生きた人々の群れ、すなわち永遠のいのちを得させられる神の民の御霊の教会)とみなされるようになる。
公正(正しい道)は荒野(御救いを求める枯れた枝)に宿り、義(御霊)は果樹園(主の霊を受けた生きた枝)に住む。
義(神に贖われ主の御霊を持つ魂)は平和をつくり出し、義(御霊)はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。(神に信頼する者は、悪しき霊に振り回されることなく、安全に守られ、平安と喜びに満ちる)」(イザヤ32:15-18)