分断化が進む世界において、人種や性別、価値観、宗教などの多様性を互いに認め合って共存し、争いのない平和な世界をみなで構築する社会をつくることが、人の共通の関心事とされていくと思います。
新教皇が立ち、カトリック信者たちは、新教皇に平和な世界の実現を期待していることでしょう。
おそらく、これから、より人道的、より社会的、より世界的な平和を模索する気運が高まることでしょう。
平和を求めることは、信仰者にふさわしいことです。人間として良いことを求める人たちは、より正しく健全な生き方は平和を求めることだと考えるでしょう。信仰者であろうと、信仰者でなかろうと、人間の心を持つ人ならば、みなが望むことでしょう。
しかし、懸念されるのは、神のいない平和へと突き進んで行くことです。宗教を超越して世界を統一させようとする動きはすでに始まっているようです。
多様性は良い事のようですが、基準値はなく、倫理社会を目指しているわけではありません。自由と開放のようで、実は無法社会を生み出していくことでしょう。
裁く法がなければ、罪に定めることができません。罪に定められないならば、何をしてもよいのでしょうか。
義に飢え渇く者、きよい基準を持つ者、聖なる神を恐れる者など、社会が堕落し切ってしまうのを、何とか留めて来た倫理的な人たちは、無法社会の中でうめき、やがて愛が冷めてゆきます。信じる事ができなくなるからです。
宗教は悪の根源だ。宗教が争いを引き起こしているのではないか。そのような思想が力を増すと、人は何を拠り所にしていくのでしょう。
地震、洪水、飢饉、死病⋯混沌とした日々の先にある混乱の社会に、方向を示す人が現われます。
宗教も人種も国組織も、世界を分断する社会悪。人の願うのは、どの宗教に属そうと、どの民族に属そうと、どの国に属そうと、日々食べるものがあり、安心して暮らすことではないでしょうか。
平和のメッセンジャー、世界的に影響力のある教皇が平和を唱えれば、多くの支持者が起こります。
一人の平和を唱えるムスリムが、国境・言語・民族の垣根を超えて、一つの家族のように安心して暮らせる、一つの世界にしよう。食料を分け合い、同じエネルギ―を使い、同じ一つの経済になって貧富の差をなくそう。同じ人間としてすべての国民の基本的人権が守られる一つの法による平和な世にしよう、と大きな事を語り始めます。
平和を唱えるローマ教皇には、多くのカトリック信者が後ろに居ます。
世界平和を唱え、新世界秩序を打ち立てようとする一人のムスリムには、多くのイスラム教徒が後ろに居ます。
世界中に増え広がる人道思想は、カトリックや平和を愛するキリスト教徒の群れとイスラム教徒の群れとが一つとなると、より具体的で実現可能な大きな力となり、世界を覆うことでしょう。
ほかの宗教に属する人たちも、無宗教の人たちも、みなの心がこの新しい国の到来を歓迎することでしょう。
みなの心には、希望の光があります。ローマ教皇と平和の君のようなすばらしい指導者のムスリム。
キリスト教、イスラム教は、ユダヤ教とも和合し、エルサレムの神殿の丘に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教共通の、信仰の父アブラハムの神の神殿を建てることでしょう。
ユダヤ教徒たちは、聖書の預言に書かれた第三神殿の建設の実現に、喜びにわくことでしょう。
エルサレムにあったイスラム教のモスクは、バビロンに移されるのでしょうか。
第三次世界大戦で勝利した中東の国々は、すでに、世界を治める主権を握っています。シーア派とスンニ派との争いは終わっています。ムスリムが一つとなったイスラム国が起こったのです。そして、その国から、平和の君が立ち、世界中の人たちに支持されるのでしょう。
ユダヤ民族の脅威ではありません。エルサレムに神の神殿を建てるという神のみことばを成就させる指導者は、ユダヤ人にとって神の使者のような平和の君です。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の争いの種であったエルサレムに和解が見られます。世界中の人たちは、彼を「平和の君」とたたえ、彼に従うことを誓い、それぞれの自国を彼の手にゆだねるのかもしれません。
世界を襲う自然災害や苦難の中にあって、彼は唯一の希望の光です。世界中の国々は、彼に自国の未来を託します。彼こそが、聖書に書かれた「反キリスト」です。
彼は、世界中から神の息を取り除きます。世界中の人たちの信仰は、彼を仰ぎます。平和であれば、神なんて必要ありません。目に見えないものへの妄想のような信仰は当てになりません。目に見える指導者は、はっきりと人間の言葉で語り、世界に平和をもたらし、安全に導いてくれるはずです。世界の望みは、反キリストに向けられます。
神を否定する人たちにとって、反キリストは唯一の神的存在です。神の代理人のようなローマ教皇も、彼を支持しているのです。
しかし、真理を知る神の人たちはうめきます。世は、神ではない力で覆われてしまったからです。彼らは、世界中が「平和な君」と賞賛している指導者が、キリストの建て上げたものを打ち壊す破壊者であることを悟ります。
第三次世界大戦後に現われた世の望みである「平和の君」は、彼らの主イエス・キリストが世の終わりに現われると言っておられた「反キリスト」なのです。
平和を求める人たちは、安心安全な道だと信じて突き進みます。しかし、その真の姿は、イエスが「荒らす憎むべき者」と言われた、巧言を使って人を騙す、偽り者です。
世は、偽預言者たちの言葉を楽しみ、反キリストを歓迎し、反キリストに信頼します。
一方、神を求める人は、この世の平和を求めているのではありません。とこしえの平和を望んでいるのです。彼らの魂は、とこしえの平安を切望します。人間の間には真実がないことを知っています。
世の人々が神から離れて反キリストの提言する平和な国造りに望みを抱いても、神に至る道を歩む彼らは、ガラガラと崩れ落ちるガラス細工の世のもろさを見ています。
彼らは、いよいよ神を求めます。目に見えない神に希望を持ちます。
彼らには、神の約束があります。彼らの主イエス・キリストが再び、世に来られて、悪しき者を取り除き、武器のない平和な世を治めてくださるはずです。
彼らは、聖書のみことばを信じています。目に見える世が聖書のみことばからドンドン外れていっても、彼らの霊の目は、主の栄光を仰ぎ見ています。
彼らは、みことばが真実であり、必ず成就することを信じているのです。
人の道を行く世の人は、イスラエルが平和を乱している、争いのもとをつくる悪の権化だと非難します。
みことばは何と言っていますか。
「主が彼(ヤコブ)のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。
『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、(全能の神)主である。わたしはあなたが横たわっているこの地(カナンの地)を、あなた(ヤコブ)とあなたの子孫(イスラエル、すなわちユダヤ民族)とに与える。
あなたの子孫(イスラエル)は地の塵のように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなた(イスラエル)とあなたの子孫(ユダヤ人のすえの神の御子イエス・キリスト)によって祝福される。
見よ。わたし(天地万物の創造主であり、救い主「神の御子キリスト」を遣わし、助け主「聖霊、すなわち真理の御霊」を遣わして、人をとこしえに生きる新しい人(神の子ども)に造り変えて、「新しい創造」をする全能の神、主。そして、最後の裁きをする裁き主)はあなた(神に至る神の民)とともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地(神がアブラハムに与えたカナンの地)に連れ戻そう。わたしは、あなた(イスラエル)に約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』」(創世記28:13-15)
神は、カナンの地をイスラエルにお与えになっておられます。
神が、神のしもべアブラハムにお与えになったカナンの地は、次のようです。
「わたしはあなたの子孫に、この地〈カナンの地〉を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ぺリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」(創世記15:18-21)
中東の土地は、イスラエルに与えられていることがわかります。そして、その地に住む住民も、イスラエルに仕えるならば、神に至る者(永遠のいのちを得させられる者)となるのです。
死から復活して永遠に生きておられるキリストは、再び、天から来られます。
聖書のことばは、ローマ教皇とそれにつく人たち(カトリック)が、反キリストと反キリストが支配する十の国の十人の指導者(ムスリム)によって、火で焼かれ滅びることが書かれています。神が、反キリストたちに、その思いを与えられるからです。
反キリストは高ぶり、ユダヤ人たちが建てた神殿に立ち、悪魔を礼拝します。しかし、反キリストの国には、三年半という期限が定められています。
三年半が満ちると、残りのユダヤ人たちが、「主よ。来てください。」と叫んで、主の御救いを待ち望みます。
主キリストは、彼らの叫びに答えて、天の軍勢とともに来られ、悪魔の軍団の戦い(ハルマゲドンの戦い)に応戦されます。そして、悪魔に権威を受けた反キリストと偽預言者とを生きたまま火の池に投げ込まれます。
反キリストが、十の国の指導者たちとともにバチカンを滅ぼしました。そして、神は彼らの心に思いを起こさせて、十人は心を一つにして、反キリストに十の国の支配権を与えるようにされます。カトリック・キリスト教は、反キリストとイスラムに滅ぼされます。
そして、イスラムは、キリストご自身によって滅ぼされ、神は、ユダヤ民族、また、とこしえのイスラエル(反キリストが殺戮したユダヤ人やキリスト者)の敵どもに復習を果たされるのです。
「(荒野に水がわき出し、荒地に川が流れると)
焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
そこに大路(神御自身が設けられた神の国へと続く大通り)があり、その道は(神の子どもたちの通る道)聖なる道と呼ばれる。
(罪の贖われていない)汚れた者はそこを通れない。これ(この大路)は、(罪が)贖われた者たちのもの。(神に義とせられ、永遠のいのちを得させられる者たちのもの)旅人も愚か者も、これに迷う込むことはない。
そこには(食い殺す)獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで(危害を加える者にも危険に)出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。」(イザヤ35:7-9)
平和を求める人の道は、あっけなく滅亡します。
しかし、神に至る人の道には、神御自身が設けられた大路があり、最後まで神に信頼した神の子どもたちは、神の贖いを喜び歌いながら、キリストの治められる千年王国にはいるのです。