世の中には様々な宗教があり、それぞれ教祖がいます。そして、それぞれ救ってくださるありがたい存在がいます。
人はめいめい信じるものに従って道を歩みます。
人は生まれつき善である、と説く宗教もあれば、人は生まれながらの悪である、と説く宗教もあります。
「人が見て自分で正しいとする道があり、その終わりはついに死に至る道となるものがある。」(箴言16:25)
人は、おぎゃあと生まれて生きる人となり、御臨終ですと言われて、死者となります。これが、人の道の基本です。だれもが通る道です。
しかし、生きる人は、それぞれ、道を選択することができます。御臨終ですと言われるまでの間、人のめいめいの自由意思にゆだねられています。
信念をもって生きる人は、多くの場合、その信念に焦点を合わせて自分の生命を生きることでしょう。それは、宗教であるかもしれません。哲学であるかもしれません。愛であるかもしれません。音楽やスポーツ、芸術であるかもしれません。限りある生命の使い方は、人それぞれです。
宗教であっても、哲学であっても、愛であっても、そこに自分の魂の居場所を求め、望みがあると思うので、その道を行くのでしょう。
人の魂は、だれに教えられたのでもなく、死の向こうにある普遍のものを恋い慕っているようです。
それは、魂は、死が終わりではないことを知っているからです。死の向こうに何か得体の知れないものが待ち受けているのです。
死を恐れるのは、未経験の人生最大のイベントの死への不安であったり、様々な憶測と妄想が混在した、未知の世界のことだからです。
もちろん、自分の行く道を選ばない人や求めない人もいるでしょうし、最初から人生の目標を持たない魂もあることでしょう。
仏陀は、生老病死の悩みの解決を求めて悟りへと導かれました。
聖書の中には、この世に生まれた者のうちで最も知恵者とされているソロモン王のことばがあります。
知恵者が、人の道に悩み苦しんで到達した結論は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者12:13)でした。
口語訳で見ると、
「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」(伝道者12:13,14)
神の命令を守る事は、人の本分である、と言っています。
「本分」とは、人が本来尽くさなければならないつとめ。人に備わっている本来の性質。人の本来の地位。本来具わっている〈身についている〉分限〈持っている身分、才能などの程度〉また、分際〈身のほど〉。そして、本来具わっている能力と力量、本来の力、真の力、実力をさすようです。
魂にはそれぞれ応じたものが備わっているのでしょうが、すべての人の共通の「本分」というものがあるようです。
人の本分とは、すべての生きている者が成すべき務めのようです。それは、個々において異なるものではなく、万人に共通のもののようです。
この本分を達成できた人が、人として生まれた目的を成し遂げた魂として、安息を得るのでしょう。
人の本分が、だれにでも備わっているということは、だれひとりとして、偶然生まれて来てしまった、という人はいないということです。
すべての魂は、果たすべきいのちの役割を持っているようです。賜物とか使命を知る以前の基本的な役割です。生きている者に課せられた、共通の課題です。
民族、国、言語が異なっても、地上に生まれて来たすべての人間に身についている性質であり、どの魂にも授けられている本来の力です。
人の本分という認識を忘れて、人は生きています。おそらく、肉体のからだを持つ以前の魂は知っていたのでしょうが、肉体を持つと、意識が目に見える方に向かってしまうので、なんだか大事なことを忘れてしまっているような気持ちになります。(何だったかなぁ、何か大切なことを忘れているようだけど⋯。)ともやもやとした感じです。
肉体は地上に生きている間だけの一時的なものです。寿命が来たら、脱ぎ捨てなければならない衣です。しかし、大事な事を忘れてしまった人間は、肉体が生命だと思ってしまいます。
実は、肉体の人間に肉体の父親がいるように、目に見えない魂にも魂の父がいるのです。
人のうちにある霊は、魂には故郷があり、また、その故郷には霊の父がおられることを知っています。
人の本分、人の本当の姿、また、人の本来の身分は肉体ではなく、霊であり、魂なのです。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
魂は、その人の心に働きかけて、人が忘れてしまっていることを思い出させようとして、あらゆる機会を用いて働きかけていることでしょう。
自分のうちの魂の声に素直な人は気づく機会がありますが、自分自身の思いがあり我の強い人は、魂の声を平気で踏みにじります。
魂は肉体を脱ぐ前に知って欲しいと、アピールします。
周囲の人と衝突しやす人、だれもわかってくれないと落ち込む人、孤独を感じる人は、魂のメッセージなのかもしれません。
自分自身に素直に生きていないことを、魂が気をもみ、外部との衝突を与えることで、内面を顧みて、自分を大切に、自分に正直に生きてほしいと、促しているのかもしれません。もしかすると、他人があなたにして来ることは、自分が自分の魂にしていることなのかも知れません。
自分に素直になれば、魂と交わりができ、魂の望みを知ることができるでしょう。魂は、罪が贖われていないままで、死者に数えられたくないのです。
魂は、誰よりも、あなた自身に愛してもらいたいのです。あなた自身に愛されないうちは、だれに愛されても心には満足がありません。
何かに追われているような焦りであったり、不足感や寂しさがあり、心が落ち着かないのです。
自分を愛していない人は、傷つきやすく、孤独です。
だれも愛してくれない、と嘆く人にお聞きます。あなたは自分自身を愛していますか。
だれにも愛されないから、自分は愛される価値がない、と思うならば、それは、魂を殺す行為です。自分自身が自分の魂を愛していないので、自分は愛されないと思っているだけなのです。
自分自身に大切にされる魂は、魂の声に素直な人に良くしてくれるものです。だれよりも応援してくれます。そして、生きる喜びを味わわせてくれるのです。魂は、決してあなたをあきらめないからです。
魂に素直ならば、道をそれることはないでしょう。
「直ぐな者(魂に素直な人)の大路(歩む人生)は悪から離れている。
自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。」(箴言16:17)
魂の声を大事にする人は、自分の道を守ります。自分の道を守る人は、その魂を守ります。
自分を愛するとは、自分の魂の声に素直であること。自分自身に嘘をつかないこと。
そうすれば、自分のうちの霊は、危険を知らせ、良い物と悪い物とを見分ける霊的感覚を得させてくれます。
また、魂は、本当の喜びとやがて価値を失う偽りの喜びとの違いを教え、自分の道を監視することを学ばせてくれます。
私たちの内には、生まれながら、霊と魂があります。
この霊を汚さないで、魂に素直に生きるならば、霊の父・魂の父に出会った時に、人に教えてもらわなくても、自分自身の霊で知り、信じ受け入れることのできる感性を持つことができるのです。
神と和解しても、自分を愛せない人は不幸です。
自分を愛せない人は、神の愛を小さく見積もってしまうのです。
自分を愛してください。
そうすれば、神の愛を素直に信じることができるのです。