ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

あなたのパンを水の上に投げよ

 

 「汝(なんじ)の糧食(くいもの)を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之(これ)を得ん

 汝一箇(ひとつ)の分を七また八にわかて 其(そ)は汝いかなる災害(わざわい)の地にあらんかを知らざればなり。

 雲もし雨の充(みつ)るあれば地に注ぐ また樹もし南か北に倒るるあればその樹は倒れたる處(ところ)にあるべし

 風を伺う者は種蒔くことを得ず 雲を望む者は刈ることを得ず

 汝は風の道のいかなるを知らず また孕(はら)める婦(おんな)の胎(はら)にて骨のいかに生長(そだ)つを知らず

 斯(かく)汝は萬時(ばんじ)を為したもう神の作為(わざ)を知ることなし

 汝朝(あした)に種を播け 夕(ゆうべ)にも手をやすむるなかれ

 其はその實(みの)る者は此(これ)なるか彼(かれ)なるか又は二者(ふたつ)ともに美(よく)なるや汝これを知らざればなり」(文語体聖書 伝道者11:1-6)

 

 あなたの大切な食糧(自分の生活に必要なもの〈お金や食糧や大切な時間〉)を、水の上に投げよ(自分のお金や時間などを神に喜ばれることに使いなさい)、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。(神に喜ばれることのために費やしたものは、のちに、神の祝福となって戻って来る)

 あなたは一つのものを一つの事柄のためだけに使うのではなく、それを七つか八つかの事柄に分散して使いなさい。七つか八つに分散しておけば、一つを失ってもまだ六つ七つが残っている。六つ七つを失ってもまだ一つが残っている。 

 あなたは、どんな災いが地に起こるかを知らないからだ。

 

 雲の色が濃くなり雨が降り出しそうになると、やがて雨が降り注ぎます。また木がもし南か北に倒れるならば、その木は倒れた場所に横たわったままあります。(この世の道理です)

 風が強くなるのを警戒している人は、そのような状況で種を蒔く事をしません。雲を見て雨が降りそうだと予測する人はその日に刈り入れることをしません。

 あなたは風の道がどのようであるを知りません。また、胎児を身ごもった女の胎内で胎児の骨がどのように育つのかを知りません。このように、あなたはすべての事を為さる生ける神のみわざや計らいを知ることはありません。

 あなたは朝のうちに種を蒔きなさい。夕方まで手を休めてはならない。(聖霊の働かれる光のある間に福音の種を蒔きなさい。やがて夜が来て、世は、反キリストに支配される闇となる。異邦人の時の終わりが来ても、手を休めずに福音の働きをし神を意識して歩み続けなさい)

 蒔いた種のうち、実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良い結果が出るのか、あなたは知らないからである。(あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない)

 

 「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手(与える手、奉仕する手)を閉じてはならない。

 進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。(その兄弟はあなたの領域の中に割り当てられている人です)

 あなたは心に邪念をいだき、『第七年、免除の年が近づいた。(ユダヤの律法では、すべての借金を帳消しにしなければならない、という免除の年〈七年の終わりごとに、負債の免除の年〉をもうけています。免除の年が近づく頃に貸した者は、免除の年になるとその借金は帳消しとなって返さなくてもよくなるので、返って来ないことを承知の上で貸すこととなります)』と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人が(物惜しみして貸さない)あなたのことで主に訴えるなら、(主はその訴えを聞かれて、貧しい者に貸さない)あなたは(主の前で)有罪となる。

 必ず、彼(貧しい者)に与えなさい。また与えるとき、心に(貸す物への)未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。(貧しい者はあなたから祝福を受け、あなたは神から祝福を受ける)

 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。(あなたは、あなたに求めて来る兄弟を助けなければならない。むなし手で去らせてはならない。心にかけてあげなさい)』」(申命記15:7-11)

 

 このことは、祝福の伴う神の命令です。貧しい者が得をして、貸す者が損をするということではなく、このことは、神から出ていることであり、神に対してする行為です。

 貧しい者は貸す者から利益を受け、貸す者は神から益を受ける、という神に祝福された人生の構図です。

 

 そして、主にある良い行ないを幾つかすることで、そのうちのどれかが恵みをもたらすことになるのかも知れません。

 

 イエスは言われます。

 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

 あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

 

 与える者には、人々もまた惜しみなく与えてくれるというのです。しかも、それは容量を上回るほどあふれるほどに気前よく、あなたのうちに押し入れてくれるというのです。

 

 あの人は恵まれているな、と羨んではいけません。知らないところで、その人は与えている人なのでしょう。

 何故かいつもあの人の所に良い物が集まる。ちょっと厚かましいんじゃない。貰ってばかり⋯。そのように、人の目には見えますが、隠れたところで、その人は与えているのでしょう。

 物質でなく精神的なものなのかも知れません。その人の持っているもの、その人のうちにあるものを惜しみなく与えているのでしょう。

 

 「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:9,10)

 

 「自分の肉(欲)のために蒔く者は、肉(偽善)から滅びを刈り取り、御霊のために(神への愛によって)蒔く者は、(神が認められる善〈きよい良心〉により)御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8)

 

 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があります。

 金銭を持つ者はその持っている物によって、みことばを教えられる人はみことばによって、祈りを持つ人は祈りによって、互いにそれぞれ持っている良いものを分け合うのです。

 

 パウロは言います。

 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その(言動の)刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

 

 福音を語ること、告げ知らせることだけが、神に覚えられる善なのではありません。主に感謝して歩む生活、祈りの生活、御霊から出る愛の行ない、日常の生活の中に、キリストとともに生きる生き方があるのです。

 普段から神を意識し、日々御霊とともに歩むならば、自分でも気づかないうちに、パンを水の上に投げる歩みをしているのです。

 

 イエスは言われます。

 「わたしの弟子(キリスト信者)だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して(神の)報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)

 

 善を行なう者たちは、知らないうちに、主に対して行なっている善があるようです。

 主は言われます。

 「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、私が旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた。」(マタイ25:25)

 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち(ユダヤ人)、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

 

 自分の大切な糧やお金や時間を、水の上に投げていた人たちは、神から報い(いのちの木の実)を受けます。

 御霊のために蒔く者は(すなわち、信仰の歩みをし、神の善に生きるならば、)、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。