大人は、自分の稼ぎで生活しています。そのお金の使い道を自分で計画し管理します。
幼子は、大人によって養われます。大人から与えられる愛情がすべてです。
大人は社会に生き、いろんなしがらみと配慮で心を使い、無意識のうちにあらゆる方面に守りの体制を敷いて戦士のように気をゆるませず、家庭で荷をおろします。
幼子は、ただ遊んでいるだけのようですが、やがて大人になって社会人となるために遊びの中で社会適応能力を身につけていきます。
大人には、ひとりになっても生きてゆく知識があります。経験をもとにした知識であり、他人から得た知識です。
他人から得た知識は、実際に体験しないと、自分事とはなりません。知識を持っているようで、役に立たない事もあります。
経験によって知識は自分の中で消化され、自分の血となり肉となって、身につきます。こうして、自分自身の知識となり、成長していきます。
一方、幼子は大人によって守られ、大人の愛に安息して生きています。彼らの世界は、父親であり、母親であり、家族であり、家庭が基本です。
自立した自意識を持つまでは、幼子の意識は母親の中にあります。母親の胎内にいた記憶が残っているのです。母親は自分と一体なのです。自分自身は母親の一部であり、母親は自分なのです。おそらく、母親が自分とは違うひとりの人間なのだ、と理解していないのではないでしょうか。幼子は身も心も完全に大人にゆだねた状態です。そして、幼子が最も必要としているのは、愛です。ミルクや離乳食や排泄は生きていくのに重要な事柄ですが、本人の幼子はおそらく、そばにいてくれる愛が安心と喜びと楽しみの原動力なのでしょう。
赤ちゃんが宙を見て、声をあげて笑ったり、微笑んだりするとき、大人の目には見えていない御使いを見ているのではないのかと思います。
赤ちゃんは肉体の大人だけではなく、まだ善悪を知る知識のない純真な霊によって、大人には見えていない霊的な美しいものを見ている可能性があります。
「イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれを御覧になり、憤って、彼ら(弟子たち)に言われた。
『子どもたちを、わたし(神の御子イエス)のところに来させなさい。止めてはいけません。(自分自身で善悪を見定めず、すべてを神にゆだねる)神の国は、このような者たちのものです。(自分自身で善悪を見極めず、すべてを大人の管理の中で守られている幼子は、自分自身で善悪を見定めず、すべてを神にゆだねる神の国にふさわしい者です)
(自分を守る大人から離れず、大人の保護の中で安心して暮らしている幼子が、愛を与えるイエスのみもとに来るのを)止めてはいけません。神の国(神の愛に守られ、神の愛に憩い、神の主権にへりくだる国)は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。(大人の庇護のもと、大人に管理される)子どものように(保護されており、自分の力に頼らない幼子は、目に見えない愛を知る者です。愛に包まれる安息の中で生きている彼らのように、純粋に神の愛を信じて)神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(神の国)に、はいることはできません。』
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼ら(幼子たち)の上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:13-16)
神から離れていても自分で善悪を判断し、計画を立て、人生設計を組み立てる、自分の魂の主人となっている大人には、自分を捨てて神に自分をゆだねることは、至難の業です。
人の魂には愛が必要なのに、素直でない人はそれを認めません。自分の力で突っ走って、何とか成功した人生を構築したいのです。
そして、人生が開け、ある程度余裕ができたところで、愛が必要なことを思い出すのです。
「弟子たちがイエスのところに来て言った。
『天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて、子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。(子どもは大人に叱られて、自分が悪いことに気がつくと、なりふり構わずどこででも涙を流して「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、しません。ごめんなさい。」と言って、自分の非を認めて謝ります。しかし、大人になると、罪に問われることを回避しようと工作します。罪に気がつく事が大事ではなく、罪に気がついて悔い改めることが大事なのです)
だから、この(自分の罪を認めて悔い改める素直な)子どものように、自分を低くする者(善悪の知識を悪巧みに使って他人を踏み台にするようなずるく歪んだ心ではなく、神の義の基準に照らし合わせた自分自身を、神の御前で正すことのできる素直な者、すなわち、自分の義を立てず、神の義にへりくだり、神に罪を指摘されたならば、幼子のように悔い改めることのできる者)が、天の御国で一番偉い人です。
また、だれでも、このような子ども(素直な魂)のひとりを、わたしの名(イエス・キリストの御名)のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。(イエスは、そのような素直で低い魂の者とともにおられるのです)
しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。(低い心を持ち、素直で純真な魂は世では役に立たない者のように扱われますが、天の御国では一番偉い人です)つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者(イエスがともにおられる小さい者を軽んじ、蔑み、彼を退ける者)は忌まわしい者(神に呪われる者)です。
もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら(神の国に反することをするなら)、それを切って捨てなさい。(罪を犯させる手、足を蔑み、その行ないを自分から切り離しなさい)片手片足でいのち(天の御国)にはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら(目の欲により罪を犯させるなら)、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのち(天の御国)にはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナ(地獄)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(人は肉体によって救われるのではありません。神の御前に立つのは魂の姿なのです。あなたは、自分の魂が、天の御国はいることができるように、努めなさい)
あなたがたは、この小さい者(神の御前にいるへりくだった魂)たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。
彼ら(あなたがたがつまらない者として見下げている小さい者たち)の天の御使い(神を信じる人たちには、彼らを守るように、と神がひとりひとりに遣わしている御使いがいるようです)たちは、天におられるわたしの父(イエスの父、すなわち、天の神)の御顔をいつも見ているからです。
人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。(神の御子イエスは、自分の力ではどうしようもできない罪人たちを招いて、彼らが悔い改めるならば罪を赦されます。自分の義に立たず、神にへりくだって悔いた心、砕かれた魂が神に受け入れられます。そして、罪の赦された魂を天の御国にいれるために、神の御子イエス・キリストは来られたのです)」(マタイ18:1-11)
知識は人を高ぶらせます。
聖書の知識のある祭司長や、パリサイ人や、律法学者たちは、知識によって、霊が塞がれました。彼らには、愛がわからないのです。
一方、無学な取税人や遊女は、知識がないゆえに罪も犯しますが、愛を知る霊的感性は失われていませんでした。
愛を知る者は、イエスのことばが、愛から出ていることを知ります。そして、愛の神に至るのです。
父なる神が、ひとり子イエスに用意された弟子たちは、無学な人たちでした。ですから、彼らは律法に縛られる者ではなく、愛を持つ人でした。
神は、愛のわかる幼子のような魂を、御子のために用意しておられたのです。知識の有無ではありません。
知識は、御子イエスご自身がお与えになるからです。
弟子たちは、イエスのことばを信じ、純粋に喜びました。
イエスは、このような純真な魂を弟子たちのうちに確認したとき、聖霊によって喜びにあふれて言われました。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者(祭司長やパリサイ人や律法学者たち)には隠して、幼子(のように知識はないけれども愛を知る弟子たち)に現わしてくださいました。
そうです、父よ。これ(愛を素直に受け入れて、神の御子イエスを信じる幼子、すなわち、愛を知る幼子を天の御国に迎えること)が御心にかなったことでした。」(ルカ10:21)