ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

なぜ木の切れ端の前にひれ伏すのか

 

 「木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。

 彼(仏師)は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために(よいりっぱな木に)育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。

 それ(木)は人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これ(たきぎ)を燃やしてパンを焼く。また、これ(同じ木)で神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これ(仏像)にひれ伏す。

 その(木から取れた)半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。

 その残りで(同じ木から)神を造り、自分の偶像(心の拠り所)とし、それにひれ伏して(心を注ぎ出して)拝み、それ(木から人間の手によってつくられた、話す事も動く事もできない偶像)に祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。

 (偶像を拝む)彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの(霊の)目は固くふさがって(生かす真実なものを)見ることもできず、彼らの心もふさがって(いのちの本来の姿〈霊の存在〉)悟ることもできない。

 彼ら(偶像を崇める者)は考えてもみず、(いのちの根源の)知識も英知(道理を悟るすぐれた知恵)もないので、『私は、その(木の)半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残り(自分の肉を生かす糧のために用いた同じ木の別の部分)で忌みきらうべき物(自分の魂のために、見えないまことの霊なる神を礼拝することを阻む「目に見える形で表した偽りの神〈偶像〉」)を造り、木の切れ端(人間の手で造った偽りの神)の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。

 灰(焼かれて灰となる木)にあこがれる者(偶像礼拝者)の心は(偽りの霊に)欺かれ、(罪の中で滅ぶ悪しき霊に)惑わされて、自分を救い出すことができず(まことのいのちを得ることができず)、(それでもなお)『私の右の手(正義と幸福)には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。(偶像により頼むことに何の疑問も矛盾も感じない)」(イザヤ44:13-20)

 

 私が、まだイエス・キリストを知らなかった頃の話です。仏像の前で心を注ぎ出して祈った後で、顔をあげると同時に仏像が私の目に飛び込んで来た時のことです。

 一瞬のことでした。ふっと我に返る瞬間がありました。

 「本当に、この仏像は私の祈りをかなえるものなのだろうか?これは神なのだろうか?」

 

 しかし、その仏像の前から立ち去る時には、わたしの心にかすかに浮かんだ小さな疑問は消去されました。疑問がわいたことを忘れたのです。

 

 聖書には、偶像はむなしい物であると、書かれています。

 神は、生けるまことの神を信じる民に仰せられます。

 「異邦人の道を見習うな。(生けるまことの神を知らない者、永遠のいのちをお与えになる「まことの霊なる神」を知らず、自分たちの手で造った神々により頼む異邦人のならわしを真似るな)天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。(生けるまことの神に仕える神の民には、祝福の約束があるではないか。裁きに怯えず、悔い改めよ)

 国々の民(異邦人)のならわしはむなしいからだ。(それは、いのちを与えるものではない。そのならわしをしてもしなくても、人はみな同じ道に行くのだ。人間には、一度死ぬことと死後に、全能の神、主に裁かれることとが定まっている)

 それ(国々の偶像)は、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。(人間に、神の霊を支配することはできない。人間が造った物は、人間が造った物にすぎない)

 それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。(銀と金で飾っていても、その内側は木である。しかも、いろんな部分を切り取って組み合わされた、人間の作品である)

 それは(人間の手で造った偶像)は、きゅうり畑のかかし(人に見せかけて竹やわらで人形を作り、鳥などの害獣を追い払って、鳥獣が作物を荒らすのを防ぐために、畑に立てた「かかし」)のようで、(かかしは、人の形に似せて作られているのに、本当の人間ではないので)ものも言えず、(また)歩けないので、いちいち(人間が)運んでやらなければならない。(鳥獣も「かかし」を怪しんで畑に近づかないものもいれば、人間ではないことを知っているので、相変わらず畑に入って荒らす鳥獣もいる)

 そんな物(神のような力はない偽りの神々)を恐れるな。(偽りの神々は)わざわいも幸いも下せないからだ。(永遠のいのちを得させるのも、永遠の死に定めるのも、生けるまことの神のほかにはいない)」(エレミヤ10:2-5)

 

 もし、人間のつくった物に霊が宿り、その祟りがあるとしても、永遠の死に定めるのは、天地万物を造られた唯一の神、最後の裁きをされる生けるまことの神なのです。

 偶像の神々は、肉体は殺せても、魂を殺すことはできないのです。

 

 目に見えない霊なる神のひとり子が、肉体を持つ人の子として、イスラエルに遣わされました。

 「人の子」として現われた神の御子イエス・キリストは言われます。

 「からだ(肉体の命)を殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、魂もからだも、ともにゲヘナ(永遠に燃え盛る火の池、すなわち、地獄)で滅ぼすことのできる方(生けるまことの神)を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 

 生けるまことの神は、唯一の神であって、世の終わりには悪しき者どもを滅ぼして、地上に、神の御子イエス・キリストが治める千年王国を建てられます。

 神の子羊イエス・キリストは、「王」となって、世界を治められます。

 

 神と神の御子イエス・キリストは創造主。すべての被造物は、主の御手の中にあるのです。

 

 アダムとエバは神を知っていました。人を造られた主は、ノアに語り、アブラハムに現われた全能の神、主。また、イスラエルに現われ、イスラエルに律法を与えて、神と契約を結ぶ「神の祭司の国民」を造られました。

 

 神は、御自身の民イスラエルに、御自身を現わされます。そして、契約の民ユダヤ民族を「イスラエル」と呼び、御自身を「イスラエルの神」と名乗られるのです。

 神は、イスラエルに神のひとり子を与えて、神の御子イエス・キリストを「イスラエルの王」とされます。

 

 「イスラエルの王である主、これ(神の民)を贖う方(御救いに定められた民〈生けるまことの神に立ち返って救い主キリストの御霊により新しい創造を受ける民〉の罪を贖って御救いを与えられる主)、万軍の主(イエス・キリスト)はこう仰せられる。

 『わたしは初めであり、わたしは終わりである。(神のひとり子は造られたものの初めであり、また、新しい創造によって「新しい人」を完成させる者である。すなわち、最初の人アダムの創造をした主は、第二のアダムによって永遠に生きる「人」を完成する主。創造の初めであり、終わりである)

 わたしのほかに神はない。

 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これ(真理)を告げることができたか。(永遠のいのちを得させて天の御国の子ども〈神の子ども〉たちを起こすのも、これから後に起こることを告げるのも、真理を明らかにし、永遠のいのちを得させるのも、神のひとり子イスラエルの王だけである)

 これ(神の御子イエス・キリストが教えるような真理)をわたしの前で並べたててみよ。(偶像に真理はあるのか)

 彼ら(偽りの神々)に未来の事(未来に必ず起こる事)、来たるべき事(神の御計画と定めと)を告げさせてみよ。

 (神に愛された民よ)恐れるな、おののくな。

 わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。(律法、詩篇、預言者たちが証言しているではないか)

 あなたがたはわたしの証人。(あなたがたはイエス・キリストの罪の贖いと御救いを告白する、イエス・キリストの証人である)

 わたしのほかに神があろうか。(いや、いない。いのちを与える神は、「人の子」として世に遣わされた神の御子キリストだけだ)

 ほかに岩はない。(あなたがたを救う確かなものは、ほかにない)

 (イエス・キリストのほかに御救いがあることを)わたしは知らない。(天地万物を造られた神、被造物を愛して贖う神、被造物を天と地に分けられる神〈人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行く〉、主がすべてを定めておられる。神の子羊イエスは、主から主権と光栄と国を受け、イスラエルの王として、再び、地に来て治めるのだ)

 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは(彼らを救うために)何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。(決して、彼らを救うことはできない。火の池が口をあけて待っている)彼らはただ恥を見るだけだ。

 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。

 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。(彼らは、いのちのない朽ちるものにすがっていたのだ)彼らは集まり、立つがよい。彼らはおののいてともに恥を見る。〈彼らは、最後の裁きで神の御前に立つとき、すべてを悟って恥を見る〉)」(イザヤ44:6-11)