日本人は自分の特定の宗教を持たないので、外国人から、日本は無宗教の国のように思われて来ました。
しかし、信仰はありました。
日本人は、古代から、大自然の中に目に見えない大いなる存在を意識して、気配とともに生きて来た国民です。
海には海を守る海の神を祀り、水には水を守る神を祀り、火には火を守る神を祀り、山には山を守る神を祀り、そして、人間よりも長い間存在し続ける大樹や岩に畏敬の念をもって土地の守りを祈る。
日本列島は、日本人たちの祈りの積まれた場所であり、祭司たちのいる国です。人間が造り出した宗教ではなく、大自然に宿る目に見えない霊的存在に祈る民族です。
昨年富士山の頂上の神社で祈りたい、と思って富士山ツアーに参加申し込みをしましたが、台風でキャンセルになりました。二回申し込んで、二回ともツアー決行は叶いませんでした。
神が導かれる神社を巡っていた頃の事です。富士山を守っておられる神(私は、神社の神々は、天地万物を造られた全能の神、すなわち、神の御子イエス・キリストの父なる神が地上に遣わされた御使いたちのように思っているので、異教徒の神々を拝んでいるという意識はありません。それゆえ、私は、神社の神々に、イエス・キリストの御名によって、日本の守りを感謝しつつ、父なる神の栄光のためにお働き下さい、と祈ります)に拒まれたようで、ショックでした。
これは、敵(悪しき霊)の妨害なのか、それとも、神は、私が富士山に登ることを望んでおられないのか。
登山に自信のない私は、あの高い山を登ることができるのか?と不安な思いをかかえつつ、ツアーを申し込みました。
また、富士山を登らなければならないと思うと、山の上にあるほかの神社へ行くのは平気でした。ふぅふぅはぁはぁ言いながらも、何のこれしき、このくらいでばてていたら、富士山は登れないぞ、と鼓舞しながら神社巡りをしました。
富士山登山を計画して、登山雨具や登山用ズボンや帽子手袋などを購入していたので、徳島の剣山に登るのに助かりました。
富士山登山ツアーに申し込んだ事で登山の心得を知ることができました。そのおかげで、剣山の用意がされていたのでした。
富士山登山が中止になってみると、ツアー代もかからないし、体力的なストレスも取り払われて、気楽になりました。剣山に行ったとき、神の備えの確かな事を知り、神をほめたたえました。神は、事前に、私に登山のために予習をさせてくださっていたのです。
富士山の頂上に行かなければならない、と思っていた私ですが、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)が、全国にある浅間神社(富士山の頂上にある神社、富士山の守り神とされているコノハナサクヤ姫〈いろんな漢字があります〉を祀る神社)の総本社であることを知りました。
なぁんだ、富士山の頂上まで行かなくても、こんな麓に、浅間神社の根源の神社があったのか。私の富士登山の目的が神社だったので、麓の富士山本宮浅間大社でその目的を果たすことができました。
昨年の初冬、「わたしの後を歩みなさい。」と主に言われ、神社巡りに精を出していた私は、主より先に歩んでいた事に気づきました。最初は、何も見えなかったので神の導きを慎重にとらえ確認しつつ一歩一歩進んでいたのが、進み続けるうちに、なんとなく明かりが見えて来て、自分でいろいろ計画を立ててしまっていたようです。
富士山に国之常立神(クニノトコタチ)の神が鎮座されたと聞いて、コノハナサクヤ姫の夫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がいよいよ現われるための準備にはいったのだと思いました。
私は、国之常立神が、闇の世に夜明けを告げる明けの明星である邇邇芸命を日本の地に起こされるのだと思います。邇邇芸命は南ユダのダビデ王の子孫であり「イスラエルのメシア」のことだと思います。邇邇芸命の妻であるコノハナサクヤ姫の守る富士山に国之常立神が鎮座されたのは、そういう意味なのだ、と思いました。
しかし、今ではありません。私は、時間がないと焦って先走っていましたが、今はその時ではないのです。それで、私の神社巡りは中断しました。
神は、全体の進捗状況を御覧になって、時代を進めておられるようです。神は、ひとりとして滅びることを望んではおられないのです。多くの日本人が目を覚ますのを、日本人の気づきに合わせながら、また、確かに推し進めておられるようです。
先日幻を見ました。
神にお会いして神を礼拝しようと、険しい山々の尾根を歩いています。しかし、そこには神はおられません。不安と焦りとむなしさがあります。
場面は変わり、麓に立ち壮大な富士山を仰いでいます。富士山の美しい姿を遠くから仰ぎ見、心は震えます。堂々と立つ富士山の姿に、ただただ感動しているのです。からだは立ち尽くし、心は静かです。
この心に、祈りがあり、祈る心に、神がおられるのです。
日本人の心は、このようなものなのでしょう。富士山を美しいと仰ぐ心、青空が美しいと思う心、小川の水のせせらぎが心地よいと感じる心、鳥のさえずりに生きる喜びを感じる心、神は、日本列島に住まわれ日本人とともにおられるのです。
日本人の魂は、理屈ではなく、気づかずに目に見えない神を礼拝していました。
クリスチャンになってからの私は、神道も仏教も異教の教えだと思っていました。日本人でありながら、日本人の魂に組み込まれている自然との共生や、手を合わせて感謝する目に見えないいのちとの繋がりを切り捨てて来ました。キリストを信じて救いを得たはずなのに、愛は冷め、心は渇いています。
神社には鳥居があって、鳥居が神域(神社の内側にある神聖な場所)と俗世間(人々の暮らす外側の場所)との境界だそうです。
神社は、古来からあらゆる時代あらゆる世代の日本人によって祈られて来た場所です。祈りが積まれた聖域なのです。
日本神道を知らない外国人でも、鳥居をくぐると、何か空気が変わったようだ、厳粛な思いになる、と聞きます。
神社の周囲は、木々で囲まれています。鎮守の森です。神社の境内やその周辺に、神殿や参道、拝所を囲むようにして存在し維持されている森林です。
神社は鳥居によって神域と俗世間とを区別しているのですが、神域と人の暮らしの間には、自然があります。鎮守の森です。日本人は木や岩や石や流れる水など、自然を見ていのちの根源である存在を感じ、その自然の中に神々を感じていたのです。そして、鳥居をくぐって、手を洗い口をすすいで身を清め、いよいよ神の御前に立ちます。
日本人は、生かしてくださる目に見えない霊を、日本人を取り囲む大自然の中に感じ、また意識したのです。
そして、そのありがたい霊に向かって感謝を祈り、有難いお方であると崇めていたのです。
神社巡りをするようになって、手を合わせて祈る日本人の姿に、偶像を拝んでいるというのではなくて「祈っている魂」を見るようになりました。祈る魂に、いとおしさを感じます。日本人の魂には祈りがあるのです。
無宗教と言われる日本人ですが、日本列島は日本人たちの祈りが満ちています。
そして、現在、自分の幸福のために祈り、信仰が地に属するものとなって大事なもの(いのち)を見失っていた日本人が、祈りをかなえてくださる神に意識を向けて、いのちの霊を感じるように覚醒し始めています。霊なる神に出会う備えがされているのです。日本人の霊が覚醒し始めています。
神は幻を見せてくださいました。
日本の地から、わき立つ雲があり、それが天に上っています。雲は、日本人ひとりひとりの祈りが集合した祈りの雲です。
自己中心の「肉に属する祈り」ではなく、いのちを得させる感謝の祈りです。日本人たちの中から、日本を祝福し日本人を感謝する「天に属する霊的な祈り」が起こされ、その祈りが一つの大きないのちの息吹となって、天の神に届けられているようです。
すると、天が開かれて、多くの御使いが日本列島に舞い降りて来ました。大勢の御使いが日本を祝福し、日本人の神の国の働きを助けるために、遣わされているのでしょう。
御使いは、ひとりひとりの祈りとともに働き、祈りの実現のため、また、悪しき霊から守っていのちの道へ安全に進むように、祈る人たちを守り助けているのでしょう。
日本は、祈りの国として目覚めているのです。
自然を見て、生かしてくださる神を思い、感謝し、喜び、神をたたえましょう。