ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私をも愛して死なれた

 

 聖歌459「きよいふみは教える」が脳内をこだまします。

 

 1 きよいふみは教える 神が人となられて 人のために救いの道を成就したこと

   私をも愛して死なれたお方は 神の子のイエスさま ひとりだけだ

 

 2 そんな愛を忘れて 道にそれた私を とがめだてもしないで 迎え入れてくださる

   私をも愛して死なれたお方は 神の子のイエスさま ひとりだけだ

 

 3 神の前に行くとき 歌うひとつ覚えの 歌はイエスが私を 愛したもうそのこと

   私をも愛して死なれたお方は 神の子のイエスさま ひとりだけだ

 

 聖い文(聖書)は私に教えてくれます。

 神のひとり子が「人の子」となられて、いのちの神から離れて死と滅びに向かう人を救うために、「人の子イエス」の十字架の死と子羊イエスの血によって人の罪を贖い、罪の呪いの死を滅ぼして、救いの道を成就され「いのちの道」を設けてくださいました。

 

 こんな名もない私のために 私の魂を滅ぼさないために、神を知らなかった私をも愛してくださった神。死んでゆくだけの私にいのちを得させるために、ご自分のいのちを与えて死なれた救世主は、神の御子イエスさまひとりだけです。

 

 そんな十字架のイエスの無条件の愛を忘れて、いのちの道からそれた私を、とがめだてもせずに迎え入れてくださいました。神の愛がわからなくなってさまよい傷ついた惨めな私を、イエスは憐れんで迎え入れてくださいました。

 

 生命を終えて、神の前に行くとき、神にささげる感謝の歌は、溢れるイエスの愛が私の魂を憐れんで、どんなに私が愚かで信仰の弱い者であっても、見捨てることなく、私を愛してくださったそのこと。私が永遠のいのちを得るまで、決してあきらめず、死の直前まで、私を愛し、私の名を呼び続け愛し続けてくださった神の愛に感謝する歌のみです。

 

 霊の目が暗く、霊の耳が遠い、こんな私をも愛して、いのちの道へ行くようにと、ご自分の死をもって、「父よ。この者をお赦しください。この者は自分で何をしているのかわからないのです。わたし(神の御子イエス)がこの者の罪を負います。自分が死に向かっていることを知らないこの者を憐れんでくださって、どうか、この者に、生きる道を歩ませてください。わたしのいのちをこの者(この魂)に与えますから。」と父なる神に執り成してくださった、私のいのちの救い主は、神の御子イエス・キリストおひとりだけです。

 

 最近、日本の子どもの中に、第二次世界大戦で亡くなった日本兵士の生まれ変わりである、と言って、自分が以前どのような名前でどのように死んだのかを記憶している子どもが報告されているようです。

 その子どもの記憶は正しく、その子どもの言う住所と名前、所属部隊、そして、死に様を調べてみると、すべてが、その子どもの言う通りだそうです。

 

 神は、キリスト教会が信じないであろう魂の生まれ変わりを、実際に起こっていることである、と知らせてくださっているようです。

 ユダヤ教が真理のすべてでないように、キリスト教もまた真理の一部なのでしょう。キリスト教は、キリスト教の信仰で見えている真理を見ているのです。

 それは、「私は真理を知っている。」とユダヤ人を高ぶらせないため、また、クリスチャンを高慢にさせないためでしょう。

 仏教の言う輪廻転生もまた、真理の一部なのかも知れません。

 

 ペテロがイエスに尋ねたことがありました。

 「『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』

 イエスは言われた。

 『七度まで、などとはわたし(神の御子イエス)は言いません。七を七十倍するほど(赦しなさい)と言います。』」(マタイ18:21,22)

 

 七度では少ないとされました。

 ひとつの魂が救いを受けるために、幾度も生まれ変わって、人生をやり直しているとしたら、どうでしょうか。

 

 第二次世界大戦で亡くなった兵士も、現在生存する子どもも、その与えられた世代にそれぞれ生きる生命ですが、ひとつの魂だと思われます。

 ひとつの魂がある時代に兵士として死にました。人は生命のあるうちに、魂の故郷である「生けるまことの神」に帰るならば、その魂は、救われた魂として、天に帰ります。しかし、魂の故郷にたどり着けない魂は、再び、人として生まれ、魂の故郷に帰るためのチャンスが与えられるのでしょう。

 

 子どもの話をしっかりと受けとめて、子どもの記憶を頼りに過去生を調べてみると、実在する人であることを知ります。子どもの言うことが確かであるということが明らかになると、魂の過去生の記憶はその子どもの記憶から消えるようです。そして、もやもやがなくなって今生の人生を歩むのだそうです。

 

 過去生がどうであるかを知ることに意味があるわけではありません。このような子どもたちの記憶によって、魂は生まれ変わっているのではないのか、という事を知るのです。

 

 今私たちが生きているのは、過去生において魂の試験が合格点に達していなかったからだと、言えます。私たちはみな、魂の故郷に帰るため、すなわち、永遠のいのちを得るために、神からチャンスを与えられて、今、ここに居るということです。

 

 魂は、肉体の死とともにリセットされて、新しい肉体を得るのでしょう。そして、人の魂は、幾つかの人生の経験のすえの魂だと考えられます。

 

 ひとりの人生は、子どもであったり、学生であったり、社会人であったり、親になったり、とあらゆる段階を踏んで成長しています。

 一度きりの人生で様々な事に挑戦し、失敗も成功もあることでしょう。人生のどの部分で切り取っても、同じひとりの人なのです。そのように、魂の転生があるとすれば、どの時代のどの人の人生を生きていたとしても、ひとつの魂がかたちを変えて実在していたという事になります。

 

 今生に至るまでの魂の経験により何タラントの賜物を担える魂であるかを調べられて、それぞれの魂の新しい経験が用意され、再び地上に生を受けたのではないでしょうか。

 

 「それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。

 『ああ、私は知っていた。』とあなたが言わないためだ。 

 あなたは聞いたこともなく、知ったこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。

 わたし(主)は、(魂のそれまでの傾向をよく調べた上で)あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時から(神に)そむく者と呼ばれることを、知っていたからだ。」(イザヤ48:7,8)

 

 私たちが今あるのは、魂の救いのためです。私という人生は、それまで失敗の連続だった魂が、私という人生にあって救いを得させられるために与えられた、魂の救いのチャンスなのでしょう。救いとは、もはや死ぬことのない魂となるために、新しい創造を受けることです。

 

 イエスは言われました。

 「わたし(神の御子イエス)を遣わした父(いのちの根源であられる父なる神、霊の父)が引き寄せられないかぎり、だれもわたし(イエス・キリスト、魂の父)のところに来ることはできません。

 わたし(神の子羊イエス・キリスト)は終わりの日にその人を甦らせます。

 預言者の書に、『そして、彼ら(神が救いに定められた魂)はみな神によって教えられる。(神の霊により、真理を知ることとなる)』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたし(救い主イエス・キリスト)のところに来ます。

 だれも神(いのちをお与えになる、生けるまことの神)を見た者はありません。(神は霊であるので、肉体の人にはわかりません)ただ神から出た者(神の御子イエス・キリスト)、すなわち、この者(「人の子」となられた神のひとり子)だけが、父(霊の父)を見たのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。(あなたがたの霊の父が遣わされた、あなたがたの魂の父、神のことばである神のひとり子〈キリスト・イエス〉を信じる者は永遠のいのちを持ちます。(彼らは、魂の父〈神のことば〉とともに、霊の父のみもとに帰り、魂の故郷、永遠の安息の中にはいるのです)」(ヨハネ6:44-47)

 

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から(神のひとり子)キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者(魂)にしようとされました。

 神は、ただ御心のままに、私たちをイエス・キリストによって御自分の子(神の子ども)にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

 それは、神がその愛する方(愛する御子)によって私たちに与えてくださった恵みの栄光(魂の救いのみわざ)が、ほめたたえられるためです。

 私たちは、この御子(イエス・キリスト)のうちにあって、御子の血による(罪の)贖い、すなわち罪の赦しを受けています。(キリストを信じた私たちの魂は、神に愛され、救いを得、天の御国にはいります)これは神の豊かな恵みによることです。(私をも愛して死なれたお方、神の子羊イエス・キリストが、私に救いを得させられて魂をお救いになったのです)」(エペソ1:3-7)

 

 主は、私たちひとりひとりを愛し、魂の救いへと導かれるのです。