ギリシャ語の「罪」の語源は、「的外れ」だと言われます。本来あるべき場所におらず、本来なすべき事を成さないことが、罪だと言うのです。
他人の物を盗んだり乱暴を働いたり人を殺したり⋯人間の考える罪とは異なる様です。
人間が考える「罪」は、赦されない罪ではありません。神に悔い改めるならば、赦される罪ばかりです。
神が「罪」と定められるのは、的外れな状態です。
「主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗闇に閉じ込められました。」(ユダ6)
天使長ルシファーは、神のひとり子の神格よりも高い者となることを企てて、天から追放されました。
神と神の御子に仕える立場の天使長が、仕えるべき主人(神のひとり子)の地位よりも高い位を求めました。天使長は、自分の領域(絶対主権者の全能の神が定めて天使長に与えられた立場)を守ろうとせずに、主人(神の御子)の地位にのし上がって自分を高い者とし、的外れな者となりました。
的外れな者は、見当外れの役立たない者となります。神が計画を立てれば、それを破壊する者となるのです。
天使長ルシファーは、天使の中でも有能で最も輝く天使長だったようです。しかし、天使長は自分自身の輝きと美しさによって高ぶり、正しい量りを失ってしまったようです。最も美しい天使長である自分よりも身分の高い、神のひとり子の存在が妬ましくてしかたありません。彼(神のひとり子)には、神格があるのです。天使たちは、神格を持たれる神を礼拝し、神のひとり子に仕え、聖霊にへりくだります。
天使長ルシファーは、自分の能力、美しさ、天使たちの忠誠に惑い、高慢になり、妬みの実を結んでしまったのです。妬みは怒りを生み、怒りは憎しみを生み、憎しみは殺意を生みます。
神は、殺意を持つ反逆者たちを、いのちの光にふさわしくない者として、天から追放されました。
天使長ルシファーと天使長に同伴する天使たちは、神に天から追放されると、自分のおるべき所(神に仕える全き光の天)を捨てて、暗闇に閉じ込められました。彼らは、闇の中に生息する堕天使たちです。
堕天使長ルシファーは悪魔となり、悪魔につく堕天使たちは悪霊どもとなりました。また、ほかの堕天使たちもいます。彼らは、宇宙の生命体として生息しているのでしょう。
もし、彼らに、悔い改める心があり、的の外れた心を栄光の神と神のひとり子とに向けたならば、彼らは、天から落ちる事はなかったでしょう。彼らは、自ら、自分のおるべき所(光の天)を捨てたのです。彼らは、悔い改めて天に残ることを選ばなかったのです。彼らは全き光から出て、闇にはいりました。
全き光には、神がおられ、神の御子がおられ、聖霊が満ち満ちておられて、天使長も天使たちも秩序を乱しません。天にあるすべてのものは、神の御意思と一つであり、全き調和があるのです。
しかし、天から落ちた悪魔も悪霊どもは、神に敵対する者として存在しています。光を憎む闇です。
天使は霊の存在ですから、人間のように肉体があるわけではありません。霊の存在の堕天使たちは、天地万物が創造される以前から、最初の人アダムが造られる以前から、生き続けています。
的外れな悪魔と悪霊どもは、創造の主に敵対する破壊者です。永遠に光を失った闇の堕天使であり、生きていても死んだ者です。陰府(よみ)に落とされ、穴の底に落とされることが神に定められているのです。
死んだ者なのに、永遠に生きなければなりません。それは、永遠の苦しみを意味しています。
神は、蛇の言葉に従って神のことばから外れたアダムを憐れまれました。
神のことばから外れることは、神のいのちから外れることを意味していました。神のいのちの息によって生きものとなった「人」は、息の存在となってしまったのです。
いのちのことばから外れた人は、限りあるいのちの存在となりました。人は、限られた期間のみ、いのちの息によって生きる者でいられる、というはかない存在です。
神のことばから外れた的外れな人は、死ぬ者となりました。いのちの的(神のことば、すなわち、神のひとり子)から外れているので、死ななければなりません。
みずから的外れな道を選んで天から落ちた悪魔と悪霊どもには、裁きと死と永遠の火の池が用意されています。
的外れな者は、全き秩序と調和の天にはいることはできません。的外れな者の行き先は、破壊者や反逆者や死者たちがはいる火の池です。
神は、神のことばに肉体を造られました。神のひとり子が、ユダヤ人の処女から生まれた「人の子」となって、世に来られたのです。
的外れの罪のために死んでゆく人々に、いのちを得させるために、神のひとり子は神に遣わされました。
的外れな罪を贖い、世の罪を取り除く神の子羊として、十字架で罪の贖いの血を流されました。神の子羊イエスの血は、的外れで傷ついた魂を癒されます。そして、神のことばを与えられました。
神の子羊イエスは、肉体を持つ神のことばです。イエスのことばに従う者は、神のことばに従う者です。神のことばに従う者は、神のことばのうちに居る者です。神のことばに居る者は、いのちの根源に繋がる者です。いのちの根源に繋がる者は、もはや、的外れな者ではありません。
イエス・キリストに繋がる者は、いのちの根源に繋がる者。神は、いのちの根源に繋がる者に、キリストの御霊(神の子羊イエスを死から甦らせられた生かす御霊、聖霊)をお与えになります。
神は、的外れな人の、断ち切られたいのちの管を修復されました。神の御子イエス・キリストの血により的外れの魂の罪を赦し、正しい位置に戻されました。人は、キリストの血により神と和解し、神に立ち返ったのです。
裁き主である神御自身が、みずから、的外れで死ぬべき魂にいのちを与えるために、贖いの血を用意されて、死の呪いを解かれました。
イエス・キリストのことばに従う者は、死の呪いが解かれた者です。彼らは、いのちの根源から離れて的外れであった自分自身を知り、罪を悔い改めて、自分から罪を捨てて神に立ち返り、神のことばに結びついて、的を得る生きものとされます。
罪が赦され、神に義とされた者は、新しい創造を受けます。死の伴う肉体を脱いで、新しい霊のからだを得る、御霊の人にかたち造られます。
神が罪人といわれる人は、神のいのちから離れた的外れな状態なのです。
しかし、神と和解し、神に立ち返って神のことばに繋がる人は、罪人ではありません。的を得る者、神に役立つ者に生まれ変わるからです。
的外れから始まった人生ですが、限られた生命の間に、的を得る魂に生まれ変わることができるのです。
的を得た魂に用意されているものは、神の子どもとしての新しい創造と永遠のいのちと天の御国です。
「今しばらくの間は、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、(新しい創造を受けている)あなたがたは大いに喜んでいる。
こうして、あなたがたの信仰は試されて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現われるとき、賛美と栄光と誉れとに変わるであろう。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼(イエス・キリスト)を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びに溢れている。
それは、信仰の結果なる魂の救いを得ているからである。」(ペテロ第一1:6-9)
的外れな者は、的外れなまま、悪魔と同じ運命を辿ります。
しかし、神の遣わされた贖い主「神の子羊イエス」と、助け主「真理の御霊」と、救い主「神の御子イエス・キリスト」のみわざにより、神と和解し的を得た者は、天の御国の信仰(いのちの根源と一つ、聖なる神の愛と感謝と賛美と調和の信仰)によって、いのちの道を歩み、天の御国にはいるのです。