創価学会の人は輪廻転生を信じています。
「人生で徳を積まなければ、次に人間として生まれ変わることができず、ネズミになるかも知れない。だから、今、人間に生まれ変われるように、徳を積まなければならない。」と言いました。
私は、真剣にその話をしてくれる創価学会の人に尋ねました。
「次にネズミに生まれて来た場合、そのネズミは、自分の前世が人間であったことを記憶していますか?(あ~ぁ、ネズミに生まれて来てしまった。人間でいた時に徳を積んでいなかったからなぁ。)と後悔するのでしょうか?」
すると、その人は「いいえ、記憶していません。」ときっぱりと否定するのです。
それを聞いて、私は言いました。
「なんだ。記憶していないなら、後悔することもないし、今徳を積まない事で、来世で苦しむこともないわけですよね。」
すると、創価学会の人は黙ってしまいました。
輪廻転生を信じる事は間違いとは言えません。しかし、次も人間に生まれ変わりたいから徳を積むというのには、納得がいきません。
輪廻転生は、延々と続くのですか。ゴールはないのですか。
仏教系の人は、神の存在には思いが暗いようです。
私は、神の存在を信じる者です。そして、神の創造を信じています。
私は、私たちを人間として生まれさせてくださった神がおられることを信じています。
何度も生まれ変わっているというならば、生まれ変わらねばならない理由というものがあるはずです。
人間は、進化によって存在しているとか、何かの意図によってではなく偶然の産物として存在しているのだと位置づける人々には、滑稽に思われるでしょう。
しかし、私は、全宇宙を統べ治められる神が、人を人として造られたことを信じる者です。
神が闇に光を造り、太陽と月と星々の天体を造り、地球に陸と海、山と川を造り、植物や陸の生き物、空の鳥、海の魚を造り、最後に人を造られたことを信じています。
神御自身の意図をもって、すべてのものは造られました。
神は創造主であられ、そのほかのものは、すべて、神に造られた被造物です。人は、人のかたちで造られました。
神はヨブに仰せられました。
「さあ、カバを見よ。これはあなた(人)と並べてわたし(神)が造ったもの、牛のように草を食らう。」(ヨブ40:15)
「卵が先か、鶏が先か」という問いがありますが、聖書を見ると、鶏が先であったことがわかります。
「神は、『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。』と仰せられた。するとそのようになった。」(創世記1:25)からです。
すべての被造物は生育した姿で造られました。そして、子どもを産む機能によって、卵を産み、子どもを産むのです。
「神が、『地は植物、種を生じる草、種類に従って、その中に種(たね)のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。』と仰せられると、そのようになった。」(創世記1:11)
すべての植物は、種を内包するものとして造られました。
神は、生き物の住む環境を整えた後で、生き物を造られました。
すべてのものは、種(しゅ)にしたがって造られました。一つの種類から、別の種(しゅ)が進化したのではないのです。
種(しゅ)にしたがって進化したことはあるのかもしれません。
たとえば、人類は、神が最初に造られたアダムとエバから生まれ広がったものですが、アダムの十代目の子孫ノアの時代に大洪水があり、大水に飲み込まれて世は一度滅んでいます。
大洪水の後に、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテとそれぞれの妻から人類は増え広がりました。
人類は、アダムの子孫であり、ノアの子孫です。
ノアの子セムは黄色人種の祖、ハムは黒人の祖、ヤペテは白人の祖と考えられています。ひとりの父ノアから出て、人は、黄色人種、黒人、白人と大きく三種類の人に分かれています。
同じ種から、三種類の肌の色に分かれ、またそれぞれの肌の色の人種の中にも、様々な言語や民族や国、肌の色と人種に分かれています。
そのように、獣や鳥や魚など、ほかの生き物も、環境により変化して種類が増えたのかも知れません。しかし、もとはひとつの種(しゅ)です。
聖書によれば、進化論が提唱しているような事実はなかった、ということになります。
すべての被造物は、おひとりの神によって造られ、同じひとつのいのち(いのちの根源)によって生きものとなりました。それゆえ、人もほかの生き物も、山や川や海、石や木々など地球にあるすべてのもの、また、太陽も月も星々も、その根源は、ひとつということができます。
人がいのちを生みだすのではなく、人を造られた神がいのちの根源であるから、いのちの根源が造られた人もまた、生命を誕生させることができるということです。
存在するものには、すべて理由があるようです。
真理がこの中にある、と考えられている「聖書」にも、存在する理由があります。
イエスの弟子のヨハネは言います。
「これらのこと(聖書)が書かれたのは、(十字架につけられて死なれたナザレの)イエスが神の子キリストであることを、あなたがた(人)が信じるため、また、あなたがた(魂)が信じて、イエスの御名によって(永遠の)いのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)
聖書が書かれた目的は、人の初めである生けるまことの神を知って、いのちの根源に結び直されることです。
なぜならば、最初の人アダムの罪により、人はみな、いのちの根源から離れてしまったからです。いのちの根源から切り離された人は、死に向かっています。いのちのない死人は、やがて朽ちて土にもどります。
木から切り取った枝は、水につけてしばらくの間は元気ですが、やがて枯れます。どんなにきれいな花を咲かせ、つぼみが開いたとしても、実とはなりません。木から切り離された枝は、実を結ぶことができないのです。
木に繋がっている枝は、つぼみが開き、花を咲かせたあとで実を結び、新しいいのちを生む種(たね)を生じさせます。実を結び、種を生じさせる枝は、いのちのある生きた枝であり、いのちの根源に繋がる枝です。いのちの根源に繋がる枝は、いのちの木から養分を得ていて、永遠のいのちが流れている枝です。
死んだものを生き返らす方法はあるのでしょうか。
木から切り取った枝を、もう一度、木につぎ合わせようとしても、すでに死んでしまった枯れ枝は、もとには戻りません。
枯れた枝は、生き返らないのです。少しでもいのちが残っていれば、少しの可能性があるのかもしれませんが、人がエデンの園から追放されてからどれだけの時間が経っているのでしょう。
神は、いのちが残る枯れ枝を見い出されました。生けるまことの神の御声を聞くことのできるアブラハムです。
神は、アブラハムを選び、彼の子孫をいのちの木(神のことば)につぎ合わせる生きた枝とすることを決められました。
神は、アブラハムにイサクをお与えになりました。アブラハムの跡取り息子です。神は、イサクにヤコブをお与えになりました。神は、ヤコブに十二人の息子をお与えになりました。彼らは、ユダヤ民族の十二部族の族長です。
神は、ヤコブから神の祭司の国民イスラエルを生みました。こうして、アブラハムは、神の祭司の国民イスラエルの父となりました。イスラエルは、アブラハムの子孫です。
枯れ枝のイスラエルに、神はいのちをお与えになります。なぜならば、イスラエルは、神と契約を結ぶ神の祭司の国民だからです。
人類は、アダムの後ろに続いています。みな、限りある生命を生き、死に向かっているのです。
神がお選びになったアブラハムの子孫イスラエルに、神は、御自身のひとり子を遣わされました。神の御子の御姿でではなく、イスラエルの処女から生まれる「人の子」として来られました。
神のひとり子は、御子の栄光の御姿を捨てて、朽ちて土にもどる肉体の「人の子」の姿で、神の祭司の国民のところに来られたのです。
「人の子」は、父なる神とひとつでした。いのちの根源と繋がる唯一の「人」(土から取られたアダム)です。
アダムは、神のことばから外れて、エデンの園から追放されました。しかし、女から生まれた「人の子」(人となられた神のひとり子)は、神のことばの中を歩まれました。神のことばである神の御子イエスには、罪がありません。的外れではありません。イエスは、地上に居ながら、天上の人として生きたのです。
罪のないイエスは、しみもしわも傷もなく、全き聖なる生贄の神の子羊です。悪魔も「人の子イエス」に、何の落ち度も見いだすことができません。悪魔は、イエスに足場を見つけることができないのです。
神の子羊イエスは、十字架で屠られ、神にささげられました。罪の贖いの子羊です。
罪のない方(ナザレのイエス)が、エデンの園から追放されていのちの木への道が閉ざされた罪人の罪を負われ、罪人の代わりに死なれました。神は、神の子羊イエスの上に下された処罰と罪の呪いにより、人類の罪を取り除かれました。
イエスの十字架には、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられていました。神の御子イエスは、ユダヤ民族の罪を贖い、神の民にいのちを得させて天の御国にはいらせるために来られたのです。
イエスの血は、悪魔の足場を取り除き、死者の王である悪魔を踏み砕きました。死者の王が踏み砕かれると、死に閉じ込められていたアダムの子孫(人類)は、死からの解放を得ます。
イエスの血は、まず、ユダヤ人に注がれ、いのちの根源に繋がっている神の子羊イエスのことばに従うならば、ユダヤ人はいのちの木の枝となることができます。
神の子羊イエスは、死と悪魔に勝利し、死から甦られた「新しい人」の初穂となられました。神のことばのうちにいるイエスは、肉体を脱いで、霊のからだで復活し、永遠のいのちを得る第二のアダムです。
神は、ユダヤ人を、キリスト(死から甦られた第二のアダム)によって死から救い出し、キリストの御霊によって新しく造り変え、人類の初穂とされます。永遠のいのちを得る神の子どもとされるのです。
イエス・キリストは、ユダヤ民族の中の「新しい人」の初穂です。
ユダヤ民族は、人類の中の「新しい人」の初穂です。あらゆる民族、あらゆる国、人類が、キリストの血によって罪が贖われ、キリストの御霊によって新しく造り変えられて神の子どもとされるために、永遠のいのちを得させる神の御子イエス・キリストの福音を宣べ伝え、信じた人たちをいのちの木に繋げる働きを担う民族です。いのちの根源の主が、御自分のために造られた民族です。
良いものに生まれ変わることが目的ではなく、新しい人に創造されるために、私たちは、人間に生まれ、今、人として生きているのです。
ユダヤ人たちが、ユダヤ人の使命に立つことができますように。