ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

自然に帰ろう

 

 自然にはいのちがあります。いのちの根源であられる神が造られたものだからです。

 それゆえ、自然の中には、目に見えない神の気配があるのです。

 木の梢のなびくのを見て、風が通り過ぎているのをとらえます。風は目に見えないけれども、確かに存在しています。目に見えないからと言って、目に見えないものの存在を否定するのは、人間のおごりです。

 

 昔の人は、自然から学んでいました。自然が教師でした。日本人は、自然とともにあり、自然に生かされていることを知っていました。人間は、自然の一部だったのです。

 

 日本人は、自然そのものに大いなるものの気配と力と意志を見ていました。木も石も山も川も、人間と同じいのちあるものでした。鳥も生き物も人間も、互いの領域を守って共生していたのです。

 自然とともにあり、自然に感謝し、自然に憧れ、自然に手を合わせ、「きょうも一日ありがとうございました。」と目に見えない何かに向かって祈る時、自然と人間は一体だったのです。

 

 高度成長期の歓喜の時代、人間の領域に文明が幅を利かせるようになりました。木々は伐採され、自然は様々な施設に造り変えられ、自然の中に生かされていた人間が、自然を支配するようになりました。

 大自然に生かされていると感謝していた心は、自然そのものは文明に役に立たないとして、自然を蔑んで高ぶりました。自然界は、文明の発展を妨げるもののように扱われ、人間に捨てられました。

 

 人間の心はいのちのある大自然を蔑み、新しい相棒である文明を歓迎したのです。

 文明が人間の生活を豊かにすると、人間の心はますます自然から離れて行きました。

 

 自然と和する日本人の心は、確実に壊れて行きました。いのちが、いのちのない文明と結びつき、いのちのある自然から離れてしまったからです。

 自然界そのものに、お金を投じる価値を見出さない人間が増えて、価値観は変わりました。人間の価値観が変われば、社会の価値観も変わり、国の価値観も変わり、昔の価値観は、古びた魅力のないもののように感じられて、納屋にしまわれました。

 

 精神的に病む人が現われても、社会は、自分たちの失った大切なものに気づかないまま前進しました。

 自然と共生している社会では、心にゆとりがありました。心をせかし追いかけて来るものはなく、ともに歩いていたのです。

 

 四十年以上前、教護院(少年院とは違い、義務教育の伴った更生施設、不良行為のある、またはそのおそれのある少年を入院させて教育保護する施設。現在では、児童自立支援施設と言うそうです)には、農業の授業があると聞きました。土に触り、自然と触れ合う農作業には、心を癒すような効果があるとの事でした。

 その頃は、農村には、うつ病の人が出にくいという時代です。

 

 私は、自然界が、人間の心を治癒する医師だと知りました。

 社会に出て矛盾だらけの世の中に気がつくと、精神を病む人のほうが正常なのではないのかと、思いました。

 自分に偽ってやり過ごすことのできる人もいれば、自分をごまかせない人もいます。

 

 何かで、アメリカかどこかの刑務所で、犬を飼って、服役している受刑者たちに犬の世話をさせると、受刑者たちの険悪な雰囲気が柔らかな人間的なものに変化した、というのを聞いたことがあります。

 犬の世話をすることで、心が優しくなり、また、責任感も生まれたようです。

 

 やはり、人間には、自然が必要なのです。生かしてくれる大自然と、ともに生きている犬や猫、生き物たち。

 

 神は、すべてのものを創造されたあとで、最後に「人」を造られました。すべてのものは、人の生活に必要なものとして、先に用意されていたのです。

 

 人は、神の創造された大自然の一部であり、また、その中に共に生きているものと共生しながら、いのちの根源を意識する者でした。

 

 神は、人に、すべてのものが調和するエデンの園の管理を任せられました。人は、神がお造りになったすべてのものに目をやって、世話をし、管理する能力が与えられていたのでしょう。

 

 自然と向き合ってその世話をするならば、心は、自然と共にあります。人の心は、いのちと共にあったのです。

 いのちは、人と共にあり、人が世話をし管理している生き物や自然とともにありました。その時、人のいのちは健やかでした。自然も健やかでした。そして、調和がありました。調和の中には、平安がありました。

 

 神は、人に平安を与えておられたのです。人は変わりました。自然も変わりました。

 しかし、人がいのちに向きを変えるならば、自然もいのちを得、人も自然も健やかになるのではないでしょうか。

 いのちは目に見えないもの。しかし、自然は目に見えるものです。自然を見る時、自然は目に見えないいのちを、人の心の目に映し出してくれるはずです。

 

 自然に触れましょう。魂がそれを求めているのです。渇いた魂は、安らぎを見い出すことでしょう。魂は、人の本質です。目に見えない魂は、目に見えないもののうちにある安らぎを求めています。それが、魂の居場所だからです。

 

 熱中症予防には、喉が渇かなくても、こまめに水を飲む事が推奨されています。水分補給は、脳梗塞予防にも良いそうです。

 喉が渇きを感じていなくても、みずから水分補給することは、自分のからだを守ることとなります。

 

 同様に、魂が何か、魂が渇いているのかどうかがわからなくても、魂を潤すために、いのちに触れてください。いのちは、草木や花、山や川、自然の中にあります。犬や猫、動物や生き物のいのちに触れましょう。鳥の声に耳を澄ませ、青空を見上げ、「一緒に生きているね。」と心の中でそっと言ってみるだけで、魂は安らぐのです。

 

 意識的に行なわなければ、忘れてしまいます。生活の一部となるように、日常となるように、意識的に自然のものに思いを向けましょう。

 

 「神と話す文明は日本だけ」と、何かの動画で言っていました。世界の先進国は、文明に向かってただひたすら走って来ました。しかし、日本国だけは、心を大事にしながら、社会が文明に飲み込まれないように、ゆっくりと考えながら、前進したというのです。

 

 AI技術が劣っているわけではないのに、あえて、アナログな方法をいつまでも続けている。人間力というものを信じて、それを決してなくさない。

 

 今分断する社会において、日本人の、和の価値を見くびらず和合を重んじる精神と、文明の発展に尽くしながら精神的文化をも大切にし、また、人間的な心(相手を思いやる心)を持ち続けることにこだわった民族は貴重なのだそうです。

 

 それは、日本人が自然界とともに生きて来た名残りです。日本人の魂には、自然界はなくてはならないものなのです。昔から、日本人は自然と共に生き、自然から教えられ、自然から勇気をもらいました。自然は日本人の心をそのまま受け止めて寄り添ってくれました。自然界は日本人の良き隣人でした。

 

 私たちの魂は、自然との交流を求めていることでしょう。自然界の中で、幼年時代の心が顔を出し、魂についたさびや傷やほこりが取り払われ、いのちと魂に矛盾がなくなり、心が素直になるからです。

 

 素直な心に、魂は生き返ることでしょう。自分を見つめ直すのは、自然体の魂です。

 魂は、あなたに生きてほしいと思っているから、本心に立ち返ることを願っていることでしょう。

 

 自然界はそのままです。飾り気のない姿で私たちに向き合ってくれます。私たちも、飾り気のない心で、自然の中にたたずむときや自然のものに目を向けるときを、自分の魂に経験させてあげましょう。

 一日1分でもいいです。まず、空を見上げること、夜空を見上げることからでもいいです。

 

 自然界は、優しくあなたの魂を迎え入れてくれることでしょう。目に見えない恵みが注がれて、心は安らぎを得ることでしょう。

 

 自然界の良き友となるとき、魂は素直になっていくことでしょう。そして、魂が本当に求めていることを知らせてくれるでしょう。

 目に見えない神の御使いが喜んであなたに仕え、魂の癒しとともに、遺伝子レベルで記憶している生かしておられる目に見えない存在に、あなたの思いを連れて行ってくれることでしょう。

 

 私たちを取り囲む自然は、私たちの魂をそのまま受け止めて、リラックスさせて、何かに気づかせてくれるかもしれません。