総督の前に連れ出されたパウロは弁明しました。
「私(パウロ)は、彼ら(ユダヤ教徒たち)が異端と呼んでいるこの道(ユダヤ教ナザレ派)に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、(ぺリクス)閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを(すなわち、聖書のみことばを)全部信じています。
また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち(ユダヤ人)自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。(そのことは聖書に書いてあることだからです)
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように(聖書のみことばの中に留まるように)、と最善を尽くしています。」(使徒24:14-16)
ダニエルはユダヤ人に対して、預言しています。
「(反キリストが、神が立てられたふたりの証人を木にかけて殺すと、ふたりの証人は死から三日目に甦ります。すると、サタンは、キリストの御思いを成し遂げたメシアが天に上るのを妨げようと待ち構えます)その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエル(イスラエルの君、イスラエルを守護する大天使)が立ち上がる。
(イスラエルの)国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。(ミカエルと彼の使いたちはサタンと戦い、サタンとその使いたちは勝つことができず、天にはサタンらのいる場所がなくなった。天から落とされたサタンが怒り狂って、ユダヤ教徒たちを殺そうとするが、神が、ユダヤ教徒たちを荒野へ導き、反キリストの目から隠して、三年半の間、荒野で養われる。ユダヤ教徒たちは、出エジプト記の先祖のように、荒野で養われる。サタンは、彼らを押し流そうとしてエルサレムに大洪水を起こすが、神がその水を地に飲み干させるので、彼らは害を受けることがない。サタンは激しく怒り、反キリストと偽預言との二人に悪魔の権威を授ける。すると、反キリストは神殿に立ち、偽預言者は「反キリストの像」を造ってユダヤ人たちに拝ませ、拝まない者をみな殺す。また、世界中の人々に反キリストの刻印を受けさせ、刻印のない者には売り買いできないようにする。これは、ユダヤ人とキリスト者の試練の時です。反キリストの像を拝むユダヤ人も反キリストの刻印を受けるキリスト者も「いのちの書」から名前が消されるのです。反キリストの像を拝まないユダヤ人や反キリストの刻印を拒む者(イエス・キリストの御名により頼む者)たちはみな、殺されます。)
しかし、その時(聖徒たちの試練の時)、あなたの民(ユダヤ人)で、あの書(「いのちの書」)に(名前の)しるされている者(信仰の勝利者たち)はすべて救われる。
地の塵の中に眠っている者(死者)のうち、多くの者が目を覚ます。(天から世を治めるためにキリストが来られ千年王国時代に入ると、ユダヤ民族は、旧約時代の死者も含めてほとんどの者が死から甦ります。キリストの御名を告白した者たちもまた、おそらく、ほとんどの者が甦ることでしょう)
ある者(「いのちの書」に名前の記された者)は永遠のいのち(を受けるため)に、ある者(「いのちの書」に名前のない者、そして、「いのちの書」から名前を消された者)はそしりと忌みに。(「いのちの書」に名前のしるされている者は、千年王国の都にはいり、都の中にある「いのちの木」の実を食べ、永遠のいのちを得ます。しかし、「いのちの書」に名前のしるされていない者は、都に入る事が許されず、泣いて歯ぎしりするのです)
思慮深い人々(真理を捉えて神のことばに結びつく者、すなわち、ふたりの証人のことばや十四万四千人のユダヤ人の宣教のことばに希望の光を見て、福音を信じ、死に至るまで信仰を捨てなかった人々。信仰の勝利者たち)は大空のように輝き(彼らの前には天が開かれて)、多くの者を義とした者は、世々限りなく(とこしえに)、星のようになる。(信仰の勝利者たちは、神の子どもとされて、新しい地と新しい天に住まいを得る)」(ダニエル12:1-3)
パウロは、義人も悪人も必ず復活するという聖書のことばを信じていました。
死者の復活というと、永遠に生きる霊のからだで復活すると思われます。しかし、復活のからだが救いではないということがわかります。復活しても、都の中にある「いのちの木の実」を食べることが許された者と、許されない者とがいるのです。
なぜ、「いのちの木の実」を食べることの許されない、すなわち、永遠のいのちを得ることのできないユダヤ人とキリスト者もまた、死者の中から復活するのでしょうか。
それは、彼らの不信仰が明らかになるためです。神は、聖書のみことばどおり、神の御子イエス・キリストが治められる、争いも武器もない平和な千年王国を実現される真実なお方であることを、彼らが自分の目で見て、はっきりと悟るためです。
十字架につけられたナザレのイエスの教えは、ガリラヤ地方のナザレの町から出たイエスをさして、ナザレ派の教えと呼ばれていました。イエスは、ユダヤ人の会堂でも教え、ユダヤ人の聖書に土台を置くユダヤ教の一派とされていたのです。
しかし、祭司長やパリサイ人や律法学者たち指導者たちからは、異端とみなされていました。彼らは、天の神から出ていない、ナザレのイエス自身の教えであると考えていたからです。そして、自分を「神の子」とするイエスを憎んでいました。
ぺリクスの妻はユダヤ人でした。
異端と呼ばれているイエスの教えについては、相当詳しい知識を持っていました。
「数日後、ぺリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について(パウロから)話を聞いた。
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判(神の裁き)とを論じたので、ぺリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(使徒24:24,25)
詳しい知識を持ち、キリスト・イエスを信じるパウロの信仰を聞きながらも、ぺリクス自身の身にも及ぶ、神の御前での白い御座の裁きの話を聞くと、恐れを感じて、それ以上論じ合うことを避けました。
ユダヤ人たちが異端と呼んでいる、自分を「神の子」と言う「ナザレのイエス」こそ、生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方である、ということを聞いたからです。
イエス・キリストを信じる人たちにとっては、まぎれもない真理。しかし、イエス・キリストを信じない人にとっては、真理を偽る異端なのです。
ユダヤ人を追い出して異邦人のキリスト教会となったカトリック。
教職者だけが聖書を読むことのできた時代に、キリスト教会(当時はカトリックのみ)の教えは聖書の教えとずれていることに気づいた神学生のマルティン・ルターが抗議すると、ローマ教皇から破門されました。
聖書に忠実でありたいとするマルティン・ルターから、プロテスタント教会が始まりました。ローマ教皇を最高指導者とするカトリックとは異なる独立したキリスト教会です。
最近まで、カトリックは、プロテスタントを異端とみなしていました。
しかし、カトリックから異端とみなされていたプロテスタント教会は世界に増え広がっています。
終わりの時に、神が世界の救いのために立てられるのは、カトリック教会でもなく、プロテスタント教会でもありません。キリスト教会ではないのです。キリスト教会は、宗教と化してしまったからです。
神は、全人類の神です。ユダヤ教の神でもなく、キリスト教の神でもありません。聖書の神であって、いのちあるものの神です。
神は、宗教によって世界を救われません。死から復活されたキリストがお与えになる、永遠のいのち、すなわち、生かす御霊によってお救いになるのです。
神が立てられるふたりの証人は、生けるまことの神に忠実なしもべです。
彼らは聖書を知りません。おそらく、ひとりは仏法の道から、もうひとりは神道の道から呼び出されるのでしょう。
人の道ではなく、真理の道を探求するふたりが、罪の贖いの子羊の名【キリスト】と、子羊を遣わされた子羊の父の名【全能の神】を悟る時、仏法から出た「イスラエルのメシア」と神道から出た「アロンのメシア」とは、ユダヤ人に聖書をお与えになった生けるまことの神のことばによって、一致して、立つことでしょう。
彼らは、いのちを尊び、いのちの神を崇める日本人から、真理の御霊のことばを宣べ伝えるために、神に召されることでしょう。彼らはいのちの根源を知らせ、いのちの主の御救いを説くのでしょう。
世界宣教をする十四万四千人のユダヤ人に、父の名と子羊の名を印するのは、このふたりです。
十四万四千人のユダヤ人は、宗教の霊に犯されていない人々です。
ふたりの証人と十四万四千人のユダヤ人が、栄光のキリストの御手の中にある「御霊の教会」を完成するでしょう。
さて、この七つの御霊の教会の教えを説く彼らの宣教のことばをプロテスタント教会の人々は受け入れるでしょうか。
カトリック教会がプロテスタント教会を異端と呼んでいたように、キリスト教会から出ていないふたりの証人と十四万四千人のユダヤ人の宣教を異端だと非難しないでしょうか。
聖書を知らない日本人の多くは、彼らのことばを信じて、御救いを得ることでしょう。